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Archive for 2月 2011

DAY5:やるべきことはやった、あとは登るだけだ。

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Climbing day 4: Barranco Camp(3,950m) – Barafu Camp(4,670m) 13km

4日目の朝、この日もほとんど寝付けずに6:30に目が覚めた。昨日しっかり上って下りたのにまだ身体が順応していないのか、丸二日間寝られていないことになる。幸いなことに頭が痛かったり、気分が悪かったりすることはなく身体はかなり軽い。

この日は翌未明のアタックに向けて早めに次のキャンプに着く必要があるためいつもより一時間くらい早く起床し、出発の準備をする。寝られていないこと以外はすべていたって順調。お通じもバッチシだ。このトイレもポーターが運んでくれ、水を入れれば水洗で流せるようになっている。もちろんトイレを囲むテントも排泄物もポーターが運ぶ。Larahaの話によると、このトイレ関係は仕事を始めたばかりの新米ポーターの役割らしい。そうだよな、トイレ運ぶよりかはテントとかのほうがいいよな。

7:30に予定通り出発。まだ谷に太陽の陽が射し込んでいない中を目の前の崖目掛けて歩いていく。途中小さな川を渡ったときに足を滑らせて右足がひざまで泥だらけになってしまった。氷河を源流にしているのでとにかく水が冷たい!朝からついてない。

50分かけて標高差200mくらいあるBarranco Wallを登り切る。崖の上からキャンプサイトを見下ろすと、この谷が氷河によって削られた侵食谷であることがよくわかる。そして上を見上げると迫力のある氷河が目の前に迫っていた。いよいよ頂上が近づいてきたぞ。

ここでETH Zurichの力学のスペシャリストMarkusと重力の話になる。彼いわく4,000mを越えているのだから酸素が薄くなることにより重力が小さくなることで、物理学的には身体は軽くなっている。だけど酸素が薄くなることによって肉体の運動機能が落ちているから感覚的には重くなる。結局平地と比べて軽いのか重いのか?ということで飛んでみた。

結果、飛ぶことについては確かに平地よりも軽かった。間違いない。だけど高く飛んだせいで右ひざを少し痛めた。アホか、俺。Markus、議論を振るのはいいけど自分も飛ぼうぜ。僕より若いんだし。

ここまでくるとセネシオ以外の大きな植物はほとんど目にしない。足元もいかにも火山ですよ!という感じのごつごつした岩だらけになっていく。そんな中僕らは黙々と歩を進める。右ひざ痛い・・・

そんな僕を横目に今日もポーターたちはすいすいと登っていく。彼らはもちろん登山靴なんてはかない。さすがにキナバル山のようにサンダルということはないけれど、みんなスニーカーで重い荷物を担ぎながら登っていく。

11:30、今日は早めに出発したこともあり、昼ごはんもいつもより早めにとる。1時間ゆっくり食べて砂糖たっぷりいれた紅茶でリラックス。歩いているときはもちろん薄着なのだけど、いったん止まると標高4,000mの風が容赦なく身体を冷やす。そんな中食事用のテントに入り温かくて甘い紅茶を飲むとほんと生き返るよ。もう外に出たくなくなるもん。やっぱり殿様登山最高。

あーもうこのままここでゆっくり休みたいなあ、なんて甘ったれた気持ちにムチを入れて午後ひたすら単調な景色の中を登っていく。もうセネシオもいない砂と石の世界。こんな目の前にドーンと高い壁が現れたら登る気なくすよ。

寝不足の僕だけじゃなく、他のメンバーも体調がすぐれない。ノルウェーからの二人LiseとKarinは高山病とぜんそくの症状が出ていて、スイスのMarkusは風邪が悪化している。ただ一人ドイツの元軍人Marcoだけは元気いっぱいだ。こういう時に10年の軍隊経験って強いよね。

しかも歩きながら聞いたところによると、彼は一週間山の中で食料なしで過ごすような特殊訓練もつんでいるらしい。「あの時は俺自身、自分が獣になったようだったよ」だって。そりゃ、これくらいなんともないよな。みんな足が重い午後の行程も彼は一人余裕顔。

15:00、ようやく本日のキャンプ地Barafu Campに到着!サイトに張られたテントのカラフルな色が見えたとたん、みんな急に陽気になった。みんな今日はがんばった!

さすがに標高4,500mを越えると風が強い。ガスが出ては消え消えては出て右から左へ流れていく。ここBarafu Campから眺めたキリマンジャロの最高峰Kibo Peak、明日はここからあの雲の向こうの頂上へ登っていくのか。いよいよクライマックスだ。

流れていくガスの中を鳥が気持ちよさそうに飛んでいた。僕らの身体はこんなに重いのに、なぜそんな軽々と飛んでいくのだろう。少し恨めしく思った。

明日朝0:00の出発に備え17:00に夕食。毎晩夕食の際にガイドリーダーのJohnが翌日のブリーフィングをしてくれるのだけど、今晩は少し特別なメッセージだった。

「喘息の症状とうまく相談しながらここまで来たKarin、高山病の症状も気力でやっつけてきたLise、風邪が悪化する中その気配を感じさせなかったMarkus、いつもみんなをフォローしてサポートしてきたMarco、そして皆を元気づけてきたShun、5人ともよくやった。ここまでくれば80%は登頂したも同じだ。やるべきことはやった、あとは登るだけだ。あとは我々がみんなを頂上まで連れていく。ゆっくりでも構わない、休み休みでも構わない、プロフェッショナルである我々がみんなを連れて行く。みんなであの頂に立とう!」

John、泣かせるなよ。話している内容は特別なことは言っていないのだけど、一言一言メンバーに伝えていく彼の話しぶりが心にしみて目頭が熱くなった。登頂前から泣いてどうする。でもみんな思うところがあるらしくじっと彼の言葉に耳を傾けていた。

彼には元々別のパーティだった僕とLarahaが合流したことを快く思っていなかった節があり、僕もあまりいい印象を抱いていなかった。だけど彼はすばらしいリーダーだ。この一言で僕らパーティの結束を限りなく強くしてくれた。

寝る前に目の前にたたずんでいたMawenzi Peakを目に焼き付けて寝床に入る。John、改めて勇気が沸く言葉をありがとう。

Written by shunsuke

2011年2月26日 at 10:18 PM

カテゴリー: 2010/10 Kilimanjaro

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DAY4: 奇妙な植物とアフリカンダンス

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Climbing day 3: Shira Camp(3,850m) – Lava Tower(4,590m) – Barranco Camp(3,950m)  13km

7:10、登山三日目の朝、夜からほとんど寝ることができずに目が覚めた。気分もテンションも最悪朝だ。寝袋の中に入るまではなんともなかったのに、身体は疲れているのに寝つけない。これが高山病の症状なのかな。

テントの外に出てみると霜が下りていた。赤道直下のキリマンジャロだけど、もうここは4,000m近く。快適なテントに豪華な食事、すっかり殿様気分になっていたけど、こういう風景を目にすると改めて山の上にいることを実感する。

8:30、Shira Campを出発。この日は高度順応日ということもあり、4,500mまで登って再び4,000mまで下りる行程。アップダウンがあるのでひざが弱い僕には要注意な日だ。まずは昨日と同じような見晴らしのよい石と岩の道を登っていく。今日も朝は天気がいい。

どうやらMarkusの体調が悪いらしい。当初から風邪気味だったけど、あまり寝られていなくて悪化しているみたいだ。Liseも寝られていないみたいだし、寝られずに苦しんだのは僕だけじゃない。そう思うと少し元気づけられてきた。ただ一人絶好調なMarco。

僕らが登っている尾根沿いのルートとは別のルートでLemoshoからのパーティが同じBarranco Campを目指して歩いていた。こういうの絵になるなあ。

この日も昨日と同じく10時を過ぎたあたりから雲が出始め怪しい天気に。そんな中黙々と歩き14時に本日の最高地点4,500mのLava Towerに到着。Lava Towerとはこの地点にあるぽっかり浮かんだ岩のことらしい。なんだかミャンマーのポッパ山みたいだ。岩の上に立っている人と比べてみてもらうとわかると思うけど、この岩かなりでかい。

パーティの中で疲れがある三人を除き僕とMarcoで岩に登ることに。ほぼ垂直の岩の壁を登っていく。MarcoとアシスタントガイドのNikkiは余裕っぽいけど、ここはかなり本格的。

20分ほどで岩を登頂。さすがにこの岩の上は見晴らしがよくてサイコー!

岩を征服した余韻にひたっていたらプルルルッと音が鳴り、Nikkiが携帯で話し始めた。えーこんなところまで携帯の電波届いてんの!!よりによって岩の上まで!何かあった時に携帯が通じるのは安心だけど、ちょっと冒険ムードは薄れるなあ。

名残惜しい気持ちを残してLava Towerをあとにして今日の宿泊地Barranco Campまで下り始める。するとLava Towerから少しいったところに草食動物らしい白骨が置かれていた。これはここまで動物が登ってきたってこと?

Larah曰く、「肉食動物に追いかけられると草食動物はどこまでも逃げてしまう、そして肉食動物も獲物を追いかけてどこまでも上がってしまうことがある」んだって。たしかにヘミングウェイが描いたキリマンジャロ頂上の豹の存在も納得がいく。

4,500mのLava Towerから3,950mのBarranco Campまでの道は谷を一気に下る道。登りの時は下を見ることが多いためゆっくりまわりの景色を楽しめなかったけれど、下りの時はゆっくり景色を楽しめる。逆に景色に見とれて足元が危ないんだけどね。

と、突然現れたでかいサボテンのようなもの。これがジャイアントセネシオ。キリマンジャロ山やケニア山にしか生息していないキク科の植物で、厚い葉で茎を覆うことによって高地の厳しい気候に絶えられるよう進化してこの形になったとのこと。何がすごいってとにかくジャイアント。

下の茶色の部分が枯れた葉で、上の緑が生きている葉。老兵ただでは死なず。枯れてしまってもしっかり茎を守っているのがすごい。

セネシオ三連発。こちらが僕らが見たThe most giant one。Laraheの身長が190cm近いので、このセネシオは5m近くあったことになる。

こちらはもう一つのキリマンジャロ名物、ロベリア。こちらも厚い葉が茎全体を覆っている不思議な植物。注目してほしいのはこの見事なまでの丸みを帯びた身体のラインと愛嬌のある形。実にかわいらしい。

このロベリア、葉をめくると紫色の花を咲かしていた。こんな鮮やかな花が葉の中に隠れているなんてほんとに不思議!

17:30過ぎにようやくBarranco Campに到着。見晴らしのいい場所に位置していてこれまでのキャンプサイトの中で一番美しいサイトだった。キャンプから見上げるピークもだんだん近くなってきたぞ。

夕飯までの間キャンプサイトをぶらついていたら、急ににぎやかな歌声が聞こえてきた。近寄ってみると、ポーターやガイドたちが歌にあわせて踊っている。

楽しそうだったので思わず僕も飛び入り参加、ボンバーイエーボンバッとリズムに合わせて歌いながら踊ると1分たたずに息が切れてきた。踊りながら仲良くなったPatrickの話によると、いつもこのBarranco Campで登山の安全を祈り、キリマンジャロへの敬意を示すために踊るそうだ。あまり深い意味はないみたいだけど。

このPatrick、僕と同い年で2年前からポーターを始めたとのこと。キリマンジャロ周辺には観光産業以外ほとんど現金収入のチャンスがないんだ。外から来た人が満足して帰っていくことができて、地元の人間もハッピーに暮らせて、この先祖から受け継いだキリマンジャロの自然を後々まで残していけるようなそんなビジネスにしていかないとだめなんだ。と熱く語る彼の口調が印象的だった。最後はみんなで記念写真。ボンバーイエッ

Written by shunsuke

2011年2月25日 at 2:32 AM

カテゴリー: 2010/10 Kilimanjaro

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DAY3: It’s awesome!!

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Climbing day 2: Machame Hut(2,900m) – Shira Camp(3,850m)  7km

すっかり放置していたキリマンジャロの続きを。

登山二日目、この日は7時に目が覚める。標高3,000m近いのだけれど、ぐっすり休めて気持ちのいい目覚めだった。筋肉痛もないし、なかなか快調な滑り出しだ。外に出てみると、KarinとLiseが泊まっているテントのようすがなんだかおかしい。どうやらLiseが高山病の症状を訴えているらしい。ゆっくり水分補給しながら登っていこうと皆で励ます。

朝ごはんもしっかりコックが料理してくれる。スープからパン、ソーセージと普段の朝ごはんより立派なくらいだ。登山者一人につき2人から3人がついているんだから当たり前といえば当たり前か。自分でやっておいて言うのも何だけど、食料だけじゃなくて食事用のテントからテーブルと椅子もパーティごとに人力で持ちあげていく登山スタイルは植民地時代の名残が強くてどうも苦手だ。

8:00に朝食を済まし、8:30出発。この日は3,100mのMachame Campから3,840mのShira Campまで7kmの行程。6日間の中で一番短いけど、3,000mを越えた後は急に高山病の症状が出る人が多いので高度順応のためにもゆっくりゆっくり歩いていく。そんなゆっくり歩く僕の横をポーターたちが抜かしていく。食料、テント、そしてトイレまで。全部を運ばせる登山スタイルはやっぱり苦手だ。

30分くらい歩いたところで、見晴らしのいい場所にたどり着いた。昨日から歩いてきた道が一望できて、いよいよ登山ムードが高まってきた。ここから見てもBeard Lichenだらけだ。Larahはちょっと疲れ気味。

この日は10時を過ぎると雲が出始め、次第に小雨が降ってきた10月頭は雨が少ないシーズンなんだけど、長い登山こういう時もあるさ。僕らパーティも雨対策。

12:30にランチポイント到着。小雨が降る中ポーターが先に準備して食事用のテントを立ててくれていた。殿様登山サイコー!!苦手とか言っていたけど、いいものはいい。

標高が3,500mを越えるともう高木は見当たらない。生えている植物も苔っぽいものだったり、とげとげがあるものだったり、気温の変化や乾燥に耐えられるようなものが多くなってくる。

登山道も岩場が増えてくる。

眼下の雲、目の前のガス。

途中、三途の川に来てしまったのではと錯覚を覚えるような光景に出会った。Larahによると、誰かが登山の記念に石を積み始めていつの間にかこんな高さになったとのこと。賽の河原で石を積むという信仰は日本だけだろう。説明するのに時間がかかった。

15:30、本日の宿泊地Shira Campに到着。キャンプサイトの向こう側に見えるのがLemoshoルートの登山道。このキャンプサイトでLemoshoから来たパーティに会ったけど、出てくる言葉がamazing!! fantastic!! awesome!!(only American)と絶賛の嵐だった。アメリカンは何でもawesomeだ。そしてそれをヨーロピアンは馬鹿にしてる(笑)

早めに着いたので、高度順応のため荷物を置いてもう少し上がってみることにした。Larahと一緒に30分ほど自分の最大の速度で登り、300mくらい高度を上げてみる。この高さになっても思ったよりもハイペースで登ることができる自分にびっくり。まだまだ捨てたもんじゃないな。キャンプに下りると夕日が最高にきれいだった。左側に見えるのはメルー山(4566m)、そしてたたずむマルクス。

今回はがんばって三脚を持ってきた。三脚使ってこの夕暮れをパシャリ。混ざりそうで混ざらない青と赤の色合いがきれいだ。awesome!!  わざわざ持ってきた甲斐があったなあ。今晩もおいしいご飯を食べてゆっくり休もう。

Written by shunsuke

2011年2月24日 at 12:55 AM

カテゴリー: 2010/10 Kilimanjaro

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黄土高原ヤオトン滞在記 その5 -隣の村でのできごと-

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ヤオトン滞在記最終回。今回は隣の村でのできごとを紹介したいと思います。

「隣の鎮に行くけど一緒に行くかい?」村での滞在も終わりに差し掛かった頃、家の主からそんな誘いがあり、早速ついていくことにした。住んでいた村から目的地までは車で30分ほどで到着。もちろんここにあった家も構えはヤオトン式。

この日は京劇の巡業が来ているとのことで、村の広場には特設ステージが設けられていた。

村の人たちもみんな広場に集合。それにしてもこう改めて見ると年寄りか子どもしかいない。若者や働き盛りの人は進学や出稼ぎに行くためほとんど村には残っていない。考えてみれば中学校までしかなくて、仕事がほとんどないこの村に若者がいてもやることはない。

地方の小さな劇団の彼ら。こうして年の半分くらいは村と村をまわって公演をしているのとこと。半分仕事、半分ボランティア。

村の横を通っている街道沿いのガソリンスタンドで、若い女の子たちが働いていた。彼女たちは中学校まで出て、それ以降はこうして働いていてみんな17歳か18歳。月給は400~500元(2004年当時)。これでも村では貴重な現金収入の機会だ。

楡林市内や西安まで行けば中卒でも800~1000元くらいの仕事があるみたい。4人のうち2人は西安に2年くらい働きに行っていたけど、言葉も違うし慣れなくて去年戻ってきた「北京とか上海まで行けば仕事はあるけど、言葉も全然違うし、田舎ものは馬鹿にされるだけ。それだったら給料安いけど地元で暮らすほうがいいわ。あっ、でもいい服着たいし、やっぱりお金ほしい」そんな揺れ動いている彼女の言葉が印象的だった。

「そんな状況を打破すべく村で新しい産業を興そうとしてるんだ」家の主が紹介してくれた村の書記が、僕を村のある一角に連れてきてくれた。

この時期、土壌流出が激しい傾斜地の耕地を林地に戻す「退耕還林」という政策の一環で補助金が退耕還林を実施した農家に支給されていた。その補助金を村の党委員会が集めて新しい現金収入が見込める事業を起こそうとしているらしい。と、話し終えたところで書記が連れてきてくれた場所の光景に僕は目を疑った。

これって・・・「そう麻だよ、麻」これが高く売れるんだ。補助金使って大麻栽培、みんなたくましいなあ。

彼らが大麻を栽培することが違法であることを知っていないはずがない。だけど、産業がなくて農業限界地のこの土地で彼らが出した結論がこれだったんだろう。この国の現実主義にはいつも感心させられることが多いけど、この時の驚きは僕のこれまでの中国での経験の中で三本の指に入る衝撃だった。

中国で働いてみて今こう思う。学生時代に一ヶ月ヤオトンに暮らすなど、会社組織の中では体験することが難しい経験を積んでおいてよかった。この経験を通じて学んだことが、今彼らとビジネスをする中でとても活かされている。村を紹介してくれた大阪大学の深尾葉子先生、村で世話してくれた家の主、馬智慧、そのほかこのようなチャンスをくれたすべての人たちに感謝です。

ヤオトン滞在記、これにておしまい。

Written by shunsuke

2011年2月20日 at 5:35 PM

カテゴリー: 2004/08 Losse Plateau

黄土高原ヤオトン滞在記 その4 -村の葬式-

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ヤオトン滞在記も第四回。今回はヤオトンから離れて、村で暮らす中で体験した葬式のようすを紹介したいと思います。

ある朝、いつもとは違う村の雰囲気で目が覚めた。けたたましい管楽器の音。なんだろうと、家の主に聞くと長く病気を患っていた村のおばあちゃんが亡くなったらしい。外に出てみると、通りを大きな花を持った行列がねっていた。

僕も行列についていってみる。その向かった先の家ではすでに葬式の準備が始まっているようで、谷の対岸から見ると親戚らしき人たちが集まって家の前の庭で準備をしていた。

家に近づくに連れ楽器の音は大きくなっていく。太鼓、トランペット、シンバル。家ではもうすでにおじいさんから小学生くらいの子どもまで10人近い楽団の人たちが集まっていた。彼らは近所の村の人で、どこかで葬式があるたびに雇われてやってきて、故人を弔うため一日中演奏を続けるらしい。

しばらくするとだんだんと人が家に集まってきて儀式のようなものが始まった。まずは白装束に身を包んだ(たぶん)親族が故人への哀悼を示し大声で泣き、叫ぶ。そういえば香港映画か台湾映画でこんなシーンを見たことがあった気がするな。葬式というと今の日本では黒い服というイメージがあるけれど、ここでは白なんだよね。

正面から見た白装束。僕が小学生の頃にはやったキョンシーもこんな姿だったような・・・

親族の嗚咽と哀悼の言葉が終わると、テーブルといすがどこからともなく出されてきておもむろに食事が始まった。普段はあまり肉を食べない(食べられない)この村でもこういう時は別だ。豚を一頭つぶしてぶつ切りにして村人にふるまっていく。

そして待っていたかのように白酒が登場し、村人たち、村人をもてなす家の人たちとの間で乾杯が始まっていく。ああ、またか。このあたりの地方は寒くて乾燥しているからよく酒を飲むんだよね。そしてみんな強い。中国で白酒を飲んだことのある人はイメージできると思うんだけど、この日もまるで食べることはメインじゃなくて酒を飲むことが目的なような感じで水を飲むかのようにクイッと白酒用の杯を開けていく。僕もたっぷり酒を飲まされて写真を撮ることなどすっかり忘れてしまっていた。

この葬式はかなり組織化されていて、壁に葬式の間の食事と役割当番表みたいなものまで張ってあった。お酒は憑さんの当番なのね。

昼前から始まった宴は終わることなく続く。村の人だけじゃなくて、隣の村や遠い親戚やらが入れ替わり立ちかわりやってきて飯を食べ酒を飲んでいく。音楽も途切れることなく、途中から楽隊だけじゃなくて、村の人たちも飛び入りで太鼓をたたきトロンボーンを鳴らしていく。

最初はただの音としか耳に入ってこなかったのだけど、シンプルな旋律のリフレインを聞いているうちになにかお経のようにもレクイエムのようにも聞こえてくるのが不思議だった。

途中から太鼓を叩き始めた村のおじさん。なくなったおばあちゃんとは畑が近くてよく一緒に畑行っていたんだって。

気がついたらすっかり暗くなっていた。それでもまだ奏でられ続ける旋律。朝来たときにトランペットを吹いていたおじちゃんが汗だくになりながら吹き続けていた。すごいなあ、何かにとりつかれたかのようだ。

そして、いよいよ葬式も最後の段階を迎える。故人の遺影を孫が抱え、故人の棺を親戚で担ぎ、村の近くの山の上にある墓まで歩いて向かっていく。途切れることなく流れる音楽と、山に向かう行列を見送るたいまつ。なんか異空間に迷い込んだかのような一日だった。

後で聞いた話では、楽器も変わり食事も昔よりよっぽどいいものになったけど、スタイルは100年以上前から変わっていないんだって。これってすごいよね。初恋のきた道でも葬式の場面があったけど、これとほとんど同じような光景だった気がする。

この時からもう7年。今の村はどうなっているのかなあ。昔のことを書いていたら、この一ヶ月暮らした村の今の姿を見に行きたくなってきた。

Written by shunsuke

2011年2月17日 at 10:36 PM

カテゴリー: 2004/08 Losse Plateau

黄土高原ヤオトン滞在記 その3

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ヤオトン滞在記その3。今回は村で見かけたいろいろなヤオトンと、村の人々の紹介。村の家のほとんどの家はヤオトンだったけれど、ヤオトンにもいろいろなスタイルがあった。もともとは山の斜面に築くためにこのような形状の家ができあがったのだとおもうのだけど、普通の土地に建てられているのもヤオトンスタイルだった。みんな慣れ親しんでいるんだろうね。

この家は新疆に出稼ぎに行っている父親の仕送りでヤオトンを建て替えて中も豪華だった。他の家は土間が多い中、ここは全面タイル貼り。心なしか他の家電も立派だ。これじゃ村にいるほかの人も出稼ぎに行きたくなるのもわかる気がする。事実、この家の主人が出稼ぎに行った後、彼を伝って多くの人が新疆へ出稼ぎに行くようになった。

ここのおうちの母親と娘。女の子、飛飛(フェイフェイ)はすごく人なつっこくて、村に来た当初、なかなか村人にかまってもらえない僕の相手をよくしてくれた。よくよく話を聞いたら「お父さんいないからさびしいんだよ」と話してくれた。父親代わりは複雑な気持ちだったけど、彼女を通じて村のことをいろいろ教えてもらったなあ。今はだいぶ大きくなっただろうな。

フェイフェイとジュアンジュアン。二人は同い年でとても仲良し。どこに行くのにも二人はセットだった。

村の中には北京の四合院のように中庭のある家も。そして中庭を囲む家もやっぱりヤオトンスタイル。

四合院のヤオトンで出会ったおばあちゃん。この時すでに81歳って言っていたっけ。国共内戦時代に毛沢東や周恩来が村に来たことも覚えているって言ってたのが印象に残っている。

村の中には街に出て行ったため廃屋となっているヤオトンも多かった。人が住まなくなったヤオトンの庭に他の人が野菜を植えているのにはびっくりした。こういうところみんなたくましい。

こちらも廃屋。人が住まなくなってかなり時間が経っているようで、壁の表面がはがれ始めていた。

村の広場で会ったおじいちゃん。今ではほとんど見られなくなった人民帽にマオカラーの人民服。この頃(2004年)は村の年配の人の半分くらいは人民服だった気がする。

こちらのお宅は二階建て。でも一階部分はやっぱりヤオトンスタイル。部屋の間口もオンドルを含めた中の構造も他のヤオトンと変わらない。売店を経営しているこの家は、そこからの利益で二階部分を増築したらしい。中国の街や田舎でどこにでもあるあの売店、小売部。そんなに儲かるのか。

近くの廟の管理人のおじちゃん。ここ陝北の人は南の人と違って性格も酒の量も豪快な人が多かった。笑い方も豪快だ。この頃はマニュアルレフのスライドで撮っていたからいい色が出ているなあ。かなり露出オーバーだけど。デジタルだと便利だけど色の鮮やかさはスライドには適わない。

あともう一回くらいヤオトンシリーズを続けようかと思います。

Written by shunsuke

2011年2月13日 at 12:28 AM

カテゴリー: 2004/08 Losse Plateau

黄土高原ヤオトン滞在記 その2

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ヤオトン滞在記その2、今回は僕が暮らしていた村の暮らしを紹介しようと思う。この陝西省北部(略して陝北)は革命根拠地延安があったこともあり、典型的な旧革命地区、老地区だ。村の入り口には当時江沢民が広めていた「三個代表」のスローガンがあった。だけど三の字が欠けて「一個代表」に。これは皮肉か?

「打日本、救中国」老地区らしいスローガン。戦争時代のものがそのまま残っているのかな?戦争映画のロケにも使われていたと言っていたから、その時に書いたものかもしれない。どちらにしてもこの古い村の風景にぴったり溶け込んでいる。

村に残る、かつて毛沢東が暮らしたというヤオトン。若き日のマオさんの写真もあった。

村のメインストリートを丘の上から眺める。谷を流れる小川に沿って小道が続き、その谷の両側に人々がヤオトンを建てて暮らしている。

街の中心部。谷を流れる小川と小川が流れるところに街の中心はあった。中腹にヤオトンがあって、そこから山頂にかけては村の人たちの畑が広がっている。ヤオトンは景色の中に溶け込んでいて、注意深く見ないとどこにあるのかわからない。

土地という土地はすべて利用しつくされている。谷をつくっている山の斜面もところによっては斜面のまま畑として利用されている。中には25度以上も傾斜があるような畑もある。植えられているのはジャガイモ。ちょうど花が咲く季節で白い花が茶色い大地に映えていた。

畑に向かうにはこういう細くて急な道を登っていかなくてはならない。どこの畑も天水だけじゃ育ちが悪いから、天秤棒を担いで水をまきにいく。かなりの重労働だ。

村に電気はあるけどガスはない。オンドルの燃料のために、飼っている家畜のえさとしても草集めも大切な仕事だ。

少し考えてみればわかるけど、斜面の土地を耕したら土は簡単に流出する。特にこの黄土高原を覆っている黄土は粒子が細かく砂よりも細かくシルトに近い。雨が降ると水に溶けてドロドロになり、大地を侵食していく。これの積み重ねで黄土高原の侵食谷は形成されていった。雨が水の通り道をつくり土を溶かしていって、村の中の道を歩いてもこのような穴がいたるところにある。

村の真ん中を流れる川はみんなの憩いの場所、そして洗濯や洗い物をする場所でもある。

街の中を歩くと、ほとんど働き盛りの男性に会うことがない。あと若い女性も。みんな街に出稼ぎに行っているのだ。おじちゃんたちは道端で羊の売買の相談をしてる。

次は村にあったいろいろなヤオトンと村で会った人たちを紹介していきます。

Written by shunsuke

2011年2月11日 at 4:42 AM

カテゴリー: 2004/08 Losse Plateau