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Archive for 9月 2011

中山七里「さよならドビュッシー」

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中山七里の「さよならドビュッシー」。新刊で出たときにインパクトのある名前だったので、タイトルは記憶に残っていた。友人がすすめていたのを聞き、旅行前に成田の本屋で文庫本を見つけて読んだらこれが面白かった。

重度の火傷を負った15歳の女の子がピアノを通じて生きることを模索する物語。行間からピアノの音色が聞こえてくるような描写と、心揺さぶる表現が素晴らしい。稚拙な文章もあったりするのだけれど、ひとつひとつの言葉に書き手の魂がこめられているのがよく伝わってくる。

作中に主人公が「ドビュッシーの「月の光」を聞く場面でこんな感想をもらす。「音楽を聴いていたのにまるで一枚の絵を見、一遍の詩を読んでいるかのような感慨が残った」。僕もこの本を読んでいて、文字を追っていたのに、いつの間にか音楽を聴いて、音楽から飛び出してきた立体的な絵を見ているような感覚が残った。

この本の登場人物が活躍する「おやすみラフマニノフ」も早速読んでみよう。こうして新しく面白い本や作家を見つけたときのわくわく感を感じられるのは、本好きとして幸せなことだね。

さよならドビュッシー (宝島社文庫)
さよならドビュッシー (宝島社文庫)

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中山 七里
宝島社
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Written by shunsuke

2011年9月29日 at 8:06 PM

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DAY6: 時速200kmを初体験

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三日間過ごしたヒヴァにお別れをする日が来た。朝6時半、最後の日くらいは早起きしてみると、昼間のぎらぎらした日差しが嘘のように街はひんやりとした空気に包まれていた。街を歩くと、家々の前では外にベッドを出して寝ている人たちが目に入ってきた。きっと昼間の暑さが部屋にこもって夜も寝苦しいんだろう。中国でもよく見た光景だ。これだけ朝が涼しいと寒くないのか心配になってくるけど、外に寝られるってことはそれだけ治安がいい証拠だね。

宿の周りから足を延ばして城外にある市場に行ってみる。目の前ではスイカを運ぶトラックが横付けされ、その奥ではカラフルな洋服に身を包んだおばちゃんがトマトを大量に買おうと、トマト売りのおじちゃんと交渉している。城内の静けさと対照的に、この時間から行きかう人たちの熱気にあふれていた。

野菜、果物、そして日常生活品がずらりと並ぶ市場。その中でもやはり主役はスイカとメロンだ。どれもでかくておいしそう。

市場のはじのほうでぶどうを売っているのを見つけた。そういえば、まだウズベキスタンでぶどうは食べていなかった。そう思い一つ食べさせてもらうと、これがたまげるほど鮮烈なおいしさ。マスカットのような色、口の中に一粒入れただけでもやもやが吹き飛んでしまうような爽快な気分になる。結局のところ、これだけ昼と夜、夏と冬の寒暖の差が激しくて乾燥していると、植物は自分の身を守り子孫を残すため身に色々なものを蓄えるんだろう。その結果、果物はより甘く、野菜はより濃厚になる。ここはおばあちゃんから孫まで一家総出でぶどうを売りにきていた。こういう家族のつながりが残っているのを見ると、とてもほほえましくなる。

市場を散策し朝食をとって三泊した宿、ミルザ・ボシをチェックアウト。たまたま見つけた宿だったけれど、部屋も清潔な上朝食がとてもおいしくて大満足な宿だった。ヒヴァに行く方、B&Bに泊まるならミルザ・ボシがおすすめですよ。宿に行ったらこんな主人が笑顔で迎えてくれる。


ヒヴァまではおよそ450kmの道のり。まずはヒヴァの北門から乗り合いタクシーに30分ほど揺られ、ウルゲンチでブハラ行きの乗り合いタクシーに乗り換える。ブハラまで一人45,000スム(19ドル)400km以上もあることを考えると安い。いざ出発!と走り出して10分もしないうちに道端のメロン売り場に車を止めてメロンを切り始めた。やっぱり腹が減ったら運転も大変だもんね。それにしてもドライバーの彼、メロンの中にある種が身につかないようにきれいにメロンを切り分ける。

きれいに切り分けられたメロンに早速かぶりつく。毎日メロンを食べているけど、どのメロンも乾いた大地から吸い上げた貴重な水分が濃縮させたようにみずみずしい。僕らだけでなく、助手席に同乗していたお姉さんもオレンジの果肉にかぶりつく。水を飲むような感覚で果物を食べるんだなあ。

ヒヴァからブハラに向かう道はアムダリヤ川に沿って走る。道の両側にはヌクスまでの道同様に運河が張り巡らされ、その水を使った綿花畑が広がっている。運河から畑に水を供給する場所には水門があって、そこで水を調節できるようになっていた。

ブハラまでの道のりはまっすぐな一本道なのだけれど、いたるところで工事をしていて工事箇所になると未舗装の砂利道を進むことになる。舗装されている所でも風が強いこの場所では砂が道を覆いつくしている箇所もあった。そんな砂に車輪をとられたのか、トラックが一台横転中。

面白かったのはこのトラックにはスイカが積まれていて、助けを待つ間ドライバーたちはトラックのボディーの木陰でスイカを食べながら休んでいたこと。ここでは果物はいざという時の非常食になるんだね。

3時間ほどで道路工事の箇所を過ぎると、今度はドライバーが猛烈に飛ばし始めた。恐る恐るメーターを見てみると針が指している場所は、なんと200km/h。周りに砂しかない場所なので臨場感がないけれど、時速200kmは人生初体験だ。そんなドライバーの頑張りのお陰で6時間半でブハラに無事到着。この日は280年前に建てられてユダヤ人商人の屋敷をそのまま使った宿、Komilに宿泊。ふんだんに太い丸太を使った建物で、ベッドルームにも昔の彫刻や絵画が残されている。お金がかかっているなあ。これで一泊35ドルは安い。

街を歩くと、ヒヴァよりも人も街もこぎれいだ。道行く人たちの表情も服装も垢抜けている。

夕方、街一番の見所、カラーンモスクにやってくる。もう中は閉まっていたけれど、夕日を浴びた彫刻と壁の色が美しい。

ここで、タシケントの最初の夜に一緒にごはんを食べに行った韓国人一行とあった。写真の仕事をしているKevin、経済の先生をしているセミョン、日東電工で働いているトングン。年も感覚も近くて思わずはしゃいで、カラーンモスクをバックにジャンプするセミョン。


ヒヴァの街は暗くなるとすぐに人通りがなくなったけど、この街は暗くなっても通りがにぎやか。宿への帰り際にスークの前でガムを売っていたおばあさんと少し話す。まるで街の中に溶け込んでいるようなたたずまいが素敵だった。

Written by shunsuke

2011年9月24日 at 7:29 PM

カテゴリー: 2011/08 Uzbekistan

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DAY5: ドラクエの世界に迷い込んだ

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昨日は一日中車で移動していたので、今日は8時頃に起きて泊まっているB&Bミルザ・ボシで、宿自慢の焼きたてのクロワッサンに自家製のアンズジャムをつけて温かい紅茶とともにいただく。ついでにおとといメロンマーケットで買ったメロンも切って、同宿だったスペイン人一行とシェアする。やっぱりメロンは格別の味だ。普段ゆっくり朝食をとることが少ないだけにこうした時間は格別だなあ。部屋もきれいだし、これで15ドルは安い。

今日は一日ヒヴァをゆっくり観光する。とは言ってもこのヒヴァの歴史地区、城壁に囲まれたイチャン・カラは500m四方くらいの小さな場所。そこに神学校メドレセやモスクとミナレット、そしてかつて藩王エミールが暮らした場所がぎゅっと詰め込まれている。そして、その城壁の中に今でも人々が暮らしているのだ。

まずは、ヒヴァの名所すべてが周れる共通チケットを購入し(15,000スム)、かつてエミールが暮らしていた場所(名前忘れた)に行き、高台から街を眺める。まるで蚊を殺すかのように人を殺すことをためらわず残虐と恐れられていたヒヴァのエミール、歴代の王たちもここからこうやって街を眺めていたんだろうな。うーん、いい眺めだ。

同じ場所から城壁を眺めてみる。遠くから見るとまっすぐに見えた、城壁も敵の侵入を防ぐためかくねくねとした形でつくられていた。これだけのものを土をこねてつくったんだよな、こうして見るとまるで生き物のように見えてくる。

次に訪れたのはスザニセンターとの名前の織物工場。伝統産業の継承と女性の社会活動を後押しすることを目的として、政府が運営している織物の訓練所のようなところ。ぱっと見るとただの単純作業で簡単なように思えるけれど、聞くと4m四方ほどの絹の絨毯を織り上げるのに、1人の女性が一日10時間織って4ヶ月もかかるとのこと。単純作業もそれが積み重なれば芸術作品になる。冬はマイナス20℃にもなるこの地方では、昔から女性は冬に家出織物をしていたんだって。

次に訪れたのは同じ一角にあったモスク。ここには井戸があって、その水を飲むと女性は美しく男性はたくましくなるそうだ。試しに飲んでみるとかなりしょっぱかった。たくましくなるどころかおなか壊してげっそりしそうなので一口で止めておく。おなか壊したら元も子もないもんね。ここも茶色の土で固められた表面に真っ青なブルーの模様と空がよく映えていた。

僕が訪れた8月はウズベキスタンではまだ夏真っ盛り。この日の気温は38℃。湿度が10%程度と低いので汗はそれほどかかないのだけど、日差しを浴びているだけでどっと疲れが出る。それでも僕らが訪れた一週間前にはヒヴァで48℃を記録したようで、まだマシだったそうだ。48℃って、想像もつかないな。

そんな暑いときは休み休み動くに限る。ということで12時前に城壁の外のバザールに行き、B級グルメでおなかを満たすことにした。まず最初に見つけたのはサモサ。羊肉とたまねぎを小麦の生地に包んで焼いたもの。油をたくさんつかっているので揚げたようなさくさくした生地がミートパイのようだ。1個800スム(25円)。中の具もジューシーでおいしかった。

しばらく歩くと、よだれが出てくるような匂いが漂ってきた。人だかりができていた匂いの元に近づいてみると、あったのは羊肉のシシカバブ。炭火で焼いた串にたまねぎを添えて、パンと一緒に食べる。やわらかくて味のある羊肉とたまねぎ、そしてバゲットの組み合わせが最高だ。昔内モンゴルや陝西省で食べていた羊肉と比べると、まったくと言っていいほど臭みがなくておいしい。きっと食べているものがちがうんだろうな。

「どうだ、うまいだろ?」としたり顔の店のおやじ。どこの国に行っても地元の人が通う市場で、にぎわっているお店に外れはないね。

食後は少し宿で休み、午後は同行者Mのリクエストで城外を歩いてみる。ここヒヴァも他のオアシス都市同様、川から水を引いていて街中に水路が張り巡らされている。そんな水路は子どもたちの絶好の遊び場のようだ。気持ちよさそう!と思って水を触ってみると思ったより冷たい。それもそのはず、アムダリヤ川の水源はパミール山脈の雪解け水なんだった。

城外を歩いた目的は観覧車に乗ること。かなりボロいのと、高いところが苦手なので僕は恐る恐る乗ってみたけど、予想通り怖かった。それでも観覧車から一望したイチャン・カラは100年前から変わらない姿で、とてもフォトジェニックだった。「ここってリアル・ドラクエの世界だよね」ヒヴァのことをそう評した友人がいたけれど、まさにそんな感じ。違うのはドラゴンクエストで出てくる教会がここではモスクになっていることくらいかも。

城内に戻ると、午前中とうって変わって人の気配が少ない。みんな午後はグダーっとしているんだろうな。人気のないリアルドラクエの世界を歩いていると、200年くらい前にタイムスリップした感覚になる。ラクダの隊商とか現れても驚かないよ。

夕方、仲良くなったみやげ物屋のおじちゃんから地元の伝統舞踊のショーが5ドルで見られるよ、と聞き行ってみる。家族でやっているような劇団で、ロシア風のダンス。ひとつひとつの踊りに物語があって、観客を楽しませることを考えていた。これは5ドルは安い。

最後にショーのことを教えてくれたおじちゃん。僕はどこに行ってもこの手の陽気なおっちゃんに好かれることが多い。類は友を呼ぶというやつか。

明日は一日がかりでヒヴァから次の目的地ブハラへ移動です。

Written by shunsuke

2011年9月17日 at 5:10 PM

DAY4: 消えたアラル海

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昨夜晩ごはんを食べている時に突然見つかったモイナックへの同行者M。ヒヴァからモイナックまで往復タクシーチャーターの料金が115USDだったので、二人でシェアしてかつてアラル海の港だった街、モイナックに向かうことにした。

ここで、アラル海について説明しておこうと思う。カザフスタンとウズベキスタンにまたがるアラル海は、世界で4番目に大きな水域面積を持つ湖だった。 異変が起きはじめたのは1970年代初頭のこと。次第に海岸線が遠のき始め、チョウザメなどの漁で栄えた湖岸の街も漁港としての機能を失っていったのだった。

理由はアラル海に注いでいた二つの大河アムダリヤとシルダリヤの流域の乾燥した大地で、大規模な灌漑によって綿花栽培を広げていったこと。雨のほとんど降らない当地で限られた水を農業に大量に使用すれば、アラル海へ注ぎ込む水量は減少していく。ソ連時代に雨の降らない土地に灌漑をめぐらし発達させた綿花栽培は、当地の主要産業となり今でもウズベキスタンは世界第4位の生産国となっているが、その産業と引き換えにどんどんアラル海は縮小していき干上がった湖底から巻き上がった塩が周囲の土地を不毛な大地へと変えていった。

20世紀最大の環境破壊と呼ばれる、このアラル海がなくなってしまった現場をこの目で見る。農林業に対して携わるものとして知っておかなくては、この目で見て理解しておかなくてはいけない。これが今回の旅の大きな目的のひとつだった。

ということで、朝8:30にヒヴァを出発。宿が手配してくれたのは昨日と比べて少しおんぼろなKIAの車と、かなり若いドライバーのドニ。まずは昨日ヌクスから来た道をまた北上していく。40分ほど進むとカラカルパクスタン共和国のゲートが見えてきた。昨日は熟睡していてこんなのがあるなんて気がつかなかった。

ヌクスに向かう途中まではアムダリヤ川の灌漑を使った綿花畑とスイカやメロンの畑が両側に広がる。人家は少ない。畑の区切り区切りには必ず水路が引かれていて、水を供給できるようになっている。

1時間ほど車を走らせると道の両側に広がっていた綿花畑は姿を消し、荒涼とした茶色い大地が広がる。

ヌクスから先で渡ったアムダリヤ川。あれだけ川幅が広く水にあふれていた大河がこれだけの水量しかなくなってしまっている姿が衝撃的だった。そりゃ、アラル海も干上がるわ。

その後、1時間半ほど給油のためにストップ。片言の英語でドニが話してくれたことから想像すると、ここカラカルパクスタンではガスの物流が途絶えていて、ある一部のスタンドしかガスを扱っていない状態らしい。それなので、ガスが置いてあるスタンドには車が集中し、長い時間待たなくてはいけない。「カラカルパクスタン、クレイジー!」と口癖のように叫ぶドニ。ヒヴァっ子からすると、辺境のカラカルパクスタンは、どうやら蔑視の対象になるらしい。そんなガススタンドでのひまつぶしのひとこま。

ヌクスからさらに何もない大地を2時間ほど走り、ヒヴァを出てから6時間ほど経ったころ、ようやくモイナックの街の入り口が見えてきた。ソ連時代には湖岸にたくさんの保養所がならび、海水浴客でにぎやかだったそうだ。魚の絵が描かれた街の看板が、往時をしのばせる。なんだか物悲しいね。

モイナックの街。湖岸の後退とともに漁業が崩壊し、缶詰工場などの雇用もなくなった上、住民には乾いたアラル海から巻き上がる塩で呼吸系の障害が急増していった。実際のモイナックの街は人の往来はあるものの、たしかにうらびれた寂しい雰囲気だった。人が暮らしている音やにおいが伝わってこない街。

街の奥に車を走らせていくと、かつて湖岸だった場所に展望台があった。下を見下ろすと水をたたえていた湖面は砂漠へと変わり、そこに行き場所を失った船がポツンポツンと置かれていた。まさに船の墓場だ。

展望台の上で会った地元のおっちゃんが少し英語を解したので話を聞くことができた。小さい頃はここでよく泳いでいたらしい。「若者はみな街を出て行った。残っているのは老人と子どもだけだ」とつぶやくように話してくれたのが印象的だった。確かに街を走っていた時、子どもの姿が結構目に付いた。もっとゴーストタウンをイメージしていたので、少し意外。

横を見ると、これまでのアラル海の変遷を伝える衛星写真があった。1960年代から70年代のアラル海。この頃はまだ水は豊富でモイナックも漁港として機能していた。僕らが小学校や中学校で習ったのもまさにこの形のアラル海だった。

1980年代になると急速に湖水が減少していく。聞いた話によると、一晩で数十メートルも湖岸が遠ざかった時もあったらしい。この頃になると湖岸の街では塩害が顕著になりはじめ、漁業が壊滅した街を人々は離れていった。モイナックはまだ街として成り立っているだけの人が住んでいるようだけど、湖岸には捨てられた街が数多くある。

そして2009年のようす。かつての湖面の90%以上は干上がり、南に残った「大アラル海」と北に残った「小アラル海」にかろうじて湖水が残っている。小アラル海のほうは堤防をつくり、南への水の流出を防ぐことによって多少生態系が回復しているらしい。

せっかくなので展望台から下に降りて、かつての湖底を歩いてみる。下を見ると無数の貝殻が散乱していた。ただ、貝殻がなければ砂漠としか思えない、風の音以外何も聞こえない世界。

そんな砂地を10分ほど歩いていくと、また別の船が打ち捨てられていた。そして木陰となっている場所に目を凝らすと牛がのんびり佇んでいた。

小一時間ほど、アラル海の船の墓場で佇んで、またヒヴァまでの道のり400kmを車で戻る。教師をしているMの話によると、最近は地図帳にも”アラル海”との言葉は入っていないらしい。”The place used to be known as Aral Sea”と言っていたっけ。まるで1990年台後半のプリンスじゃないか(the Artist Formerly Known As Prince)。

この日は結局ヒヴァに着いたのが夜の9時半。後部座席に乗っているだけでも疲れたけれど、運転したドニはもっと大変だったはず。ドニ、ありがとう。

Written by shunsuke

2011年9月15日 at 10:30 PM

カテゴリー: 2011/08 Uzbekistan

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DAY3: ヌクス、禁じられたコレクション

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ウズベキスタン二日目、この日は朝一番の飛行機でタシケントからウルゲンチまで飛ぶ。すでに航空券は日本で購入していたので、朝5時半に起床し、タクシーで空港に向かう。チェックアウトがてらフロントでUSDから現地通貨のスムに両替してもらったら、1USD=2200スムだった。公定レートが1USD=1800なので、闇で両替したほうがかなりレートがいい。朝から陽気だったフロントのお兄ちゃんとタクシードライバー。うーん、朝から天気もいいし二人ともいいやつだったし、いいことがありそうだ。

そう思った瞬間、ホテルの部屋に携帯電話を忘れたことに気がついてあわててホテルへ戻る。何やってんだ。これまで何回携帯なくしたことか。この前の5月もブラジルで同じことやってタクシーでホテルまで戻っているし、進歩がない・・・

ともあれ無事に携帯も回収し、空港でチェックインをしていると、昨日北京空港のラウンジで見かけたナイスガイを見つけた。話しかけてみると、香港人で名前はチャールズ。女友達と二人で来ていて、なんと同じウルゲンチ行きでウルゲンチから200kmほどあるヌクスまで行く予定とのこと。僕はそのヌクスを経由してさらにその先にあるモイナックに行く予定だったのでちょうどいい。

ウズベキスタン航空の機体は予想外に真新しい。定刻どおり7時に離陸して1時間ほどで砂漠の中に開かれたオアシス都市、ウルゲンチの町並みが見えてきた。

ウルゲンチに到着後、ヌクスに向かうチャールズと話していると、なんとすでに香港から車を手配してあるとのこと。「よかったら乗ってく?」との言葉に甘えて、タシケントで働いていてロシア語堪能なTちゃんと一緒に4人でヌクスへ向かうことにした。

旅行会社を通しただけあって、車は立派なシボレー。チャールズと一緒に両替をしようとドライバーにレートを聞いたら、1USD=2400スムだった。どうやらこれが今では闇の平均的なレートらしい。

30分ほどウルゲンチから走ってアムダリヤ川を渡る。キルギスのパミール山脈の雪解け水を水源とする川で、ほとんど雨が降らないこの地域にとっては貴重な水源となっている大河。ただ、近年以前にもまして水量が減っているらしくドライバーのつぶやいた”Almost no water”が印象的だった。

ヌクスまでは2時間半ほどのドライブ。のども渇くだろうということで、道端でひと休憩。なんだかにぎやかだなあと思って降りてみるとメロン市場だった。今はメロンとスイカが季節、”気温40度以上湿度10%以下のこの地で育った果物は世界中で一番だ”と自慢げにおじちゃんがメロンを抱えて持ってきた。確かにうまそうだ。

どこから来たんだい?えっ?ヤポンスキ、フクシマ は大丈夫かい?こんな遠いところまでよく来た。たくさん食べていってくれ。とおもむろにメロンを切り出して僕らにすすめてきた。ありがたくがぶりつくと、想像以上の甘さ。まるで濃縮還元したメロンジュースのような甘さとおいしさだ。こりゃ、世界一もオーバーじゃない。チャールズもこんなメロンは初めて食べたとむしゃぶりつく。

一人3切れくらい食べてお金を払おうとすると、「何行ってんだ、こんな遠くまで来てくれたのに金なんて受け取れるか」と頑として受け取ってくれない。そうか、ありがたくご馳走になるよ。おっちゃん、ありがとう!

おなかも満たされ、車内でうとうととしている間にヌクスに到着。昼ごはんを食べようと入ったレストランで一枚の絵に釘付けとなった。絵になんの説明もないけれど、おそらくアラル海の漁の様子を描いた絵。1960年代まではこうしてアラル海でチョウザメをはじめとする漁が盛んに行われていた。

食後はヌクスのハイライト、ヌクスの博物館へ向かう。ここにはソ連時代に国から認められていなかった前衛アートを守るため買い集めた民俗学者サヴィツキーのコレクションが収蔵されている。

恥ずかしながら僕は、チャールズたちに言われるまでこの博物館の存在を知らなかった。写真撮影禁止の館内はここヌクスがあるカラカルパクスタン地域の歴史から、ウズベキスタンの絵画、ソ連時代にサヴィツキーが集めたコレクションまでそろっていて、ゆっくり1時間半見て回った。

ガイドの説明によると、ソ連時代には政治的に敏感だと認識されるような内容の絵画は、描いた画家はもちろん収蔵している人間も政治犯として逮捕される危険があったとのこと。その絵画を救うためにサヴィツキーは1950年代から60年代にソ連中を駆け回り、モスクワから遠く離れたここヌクスにひっそりとコレクションを集めていったらしい。命がけで彼が守った絵画たちがここにあるのだ。

どのような絵が政治的意図を持ったのかなんて個人の感覚でしかない。たとえばこの牛の絵はこの博物館でも目玉の絵なのだけれど、角が左右非対称なところとか、尻尾の先に太陽があることが共産主義の否定と受け取られたらしい。ほんっとにばかげているよね。人間の自由な発想を阻害する国家は衰退する。僕はそう思うよ。

見終わった後は、Tちゃんのガイドをしていたナルギーザとしばしおしゃべり。彼女によると、ここの絵画はフランスとかにも展覧会で持ち出されたりしているらしい。 だけどウズベキスタン国内の一自治共和国であるカラカルパクスタン共和国ではなかなか維持する予算もないらしく、今は維持するだけでも各国からの寄付に頼っている状態とか。いつか日本でも「禁じられたコレクション」みたいな題名でサヴィツキーコレクション展をしてくれないかな。そう思わせるくらい迫力のある絵画たちだった。

もともと僕はここからさらに200kmほど北西に行ったアラル海湖畔の街、モイナック(Moynaq)に行く予定だったのだけど、ここに来て博物館内の弱冷房による暑さで疲れてしまい、チャールズたちと一緒にヒヴァまで行くことにした。だってヌクスからタクシーチャーターしても100USDって、高いよね。みんな疲れたのか、ヒヴァまでの道は4人とも爆睡。

ヒヴァには午後4時半に到着。ここでチャールズ一行とウルゲンチの友人宅に泊まるTちゃんとお別れ。ヒヴァは19世紀中ごろまでヒヴァ=ハン国としてエミール(藩王)に統治されていたオアシス都市で、今でもその城壁と町並みがイチャン=カラ(内城)としてそのまま残っている。ヒヴァの中でも一番高い場所にあるイスラーム・ホジャ・ミナレットに登ると、ちょうど夕暮れ時を迎えた街が一望できた。

このミナレットのてっぺんからの風景をスケッチしていた女の子に遭遇。フレンチで、カメラは持たず心に残った風景と人々をモレスキンのノートにスケッチしながら旅しているとのこと。ひとつの風景をスケッチするのに最低一時間。それだけの時間、目に映るものをペンを通して残していったら見えている景色もまた違ったものに思えてくるのだろうな。尊敬するよ。デジタルカメラになってとりあえずシャッターを切って記録しているだけの自分がとても軽薄に思えてきた。

夜は街の真ん中にあるB&B、ミルザ・ボシ(Mirza Boshi)のレストランでウズベク料理を食べる。ちょうど夕暮れ時の街のようすが幻想的で目に焼きついた。考えてみたらほんの150年くらい前まではこの地はまだまだ秘境で、残虐なエミールがイギリスやロシアからの使者や旅人の処刑を繰り返し、街には奴隷があふれていた場所なんだよね。そんな歴史を考えると、この夕焼けも幻想的というよりもおどろおどろしいものに思えてきた。

この夜、モイナックまでの同行者が見つかったので、明日は一日かけてアラル海へ行ってきます。

Written by shunsuke

2011年9月11日 at 11:54 PM

カテゴリー: 2011/08 Uzbekistan

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DAY2:肉好きパラダイス、上海

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上海で迎えた朝、8時前の飛行機に乗るために5時半に起きる。上海ではものすごい久々にユースホステルに泊まってみた。地下鉄1号線の新闸路駅そばにあるShanghai Soho Youthhostel。シングルで一泊199元とその辺の7天ホテルより高いけど、蘇州河沿いの雰囲気がよくて旅気分が盛り上がった。60元くらいのドミは旅行者でなく、仕事を探しに来ていると思しき地方の若者に占拠されていたのが印象的。日本に例えると、就職活動で地方から東京に上京してきた学生たちの常宿か。ユースって、こういう使われ方するのね。

タクシーを捕まえて虹橋空港まで急ぐと乗るはずだった中国国際航空は4時間のディレイ。予想通りというか、なんというか。とりあえず北京での乗り換えに余裕を持っていてよかった。朝ごはんを食べずに出てきたので、おいしい上海の朝ごはんを探しに地下鉄2号線で一駅戻り、淞虹路で降りてみた。朝方ざーっと降った雨が上がり、涼しい朝。頭の上を見ると、窓から洗濯物を干すために突き出た棒がまるで生き物のように見えた。

空港の中のレストランは高くておいしくない。そう目論んだとおり、朝の通勤路沿いには小吃のお店が並んでいた。油条(ヨウテャオ:揚げパン)にしようか、肉まんにしようか、はたまた煎饼にしようか。どの店も店内からよだれを誘うような香ばしい油の香りが漂ってくる。パオズは1個1.8元(20円くらい)。10年前の1.8倍か。不動産なんかが10年間に10倍とかになっていることを考えると、他の物価の上がり方に比べると庶民が必要な食べ物の物価は抑えられている。

結局触手が伸びたのは上海名物、生煎(焼きショーロンポー)。最近日本でもはやっているようで、この店も日本でフランチャイズ展開しているとか。恥ずかしながら僕は初めて食べたのだけど、肉にこだわる街上海らしくカリカリに焼いた香ばしい皮に包まれたジューシーな肉が最高にうまい。

北から南、西から東と中国で色々な場所に行ってきたけど、肉まんとかショーロンポーは上海がダントツにうまい。肉まんでも肉汁があふれてくるし、焼き餃子もあるし、上海は肉好きにとってはたまらない街だね。どうだ!おれのはうまいだろ!ちゃんと宣伝しておいてくれよ!と満足顔のショーロンポーおじさん。アツアツの出来立てが4個で2.5元(30円くらい)。日本だと1個100円くらいで売っているのかな?

ということで、しっかり宣伝もしておきます。 淞虹路と天山西路の交差点近く、淞虹路にある焼きショーロンポー屋さん「阿二ショーロンポー」。地元のおばちゃんが朝から列をなすおいしい店です。近くに来た際はお立ち寄りを!看板見ると昔は「阿二」じゃなくて「阿三」だったみたいだけど、そこはご愛嬌。

そうこうしているうちにいい時間になり、空港に戻る。今度は無事に飛び2時間ほどで北京空港に到着。遅れることが当たり前になっている中国国内線、とはいえこの広い中国では代替となる交通機関はこの前脱線した高速鉄道くらいだし、他に選択肢がないのが痛い。北京空港では、到着したターミナル3からタシケント行きの中国南方航空が出発するターミナル2に無料バスで移動する。

T2って初めて着たかもと思いながら車窓を眺めていたら、なんだか懐かしい風景が見えてきた。そうか、T2って昔使っていたターミナルなんだね。北京にインターンに来ていた2003年の頃の記憶が蘇ってきて懐かしい気持ちになった。もう8年も前になるのか。こうやって同じ場所に何度も来ていると、それぞれの場所に思い出が塗り絵のように重ねられていくんだろう。

北京発タシケント行きの飛行機は7分くらいの搭乗率、乗客はウズベクで商売しているらしき中国人が4割、中国に出稼ぎや商売に来て戻るウズベク人が6割といったところ。ざっと見渡した限り観光客はほとんどいない。座席はもちろんモニターなしで、清掃の手間を省くためか客を後部に詰め込んでいた。これ、感じ悪いし、離陸後すぐに前の開いている席に移動して横になっていたので、あまり意味がない気がするんだけどな。

北京からタシケントは6時間あまり。オンデマンドがないので、僕はずっと隣に座ったウズベクの青年Bekaと話をしていた。彼はクアラルンプールに2年間ほど留学していたので英語が堪能、面白かったのが言語の話。ウズベクではロシア語を母国語として話す人、ウズベク語をメインに話す人が出身階級や教育を受けた背景で分かれている。Bekaの父親はウズベク語を話す家庭で育ったためロシア語もわかるけどメインはウズベク語。母親の家系はもともとロシアから移住してきたため、ロシア語の教育を受けてきてウズベク語はそれほど理解していない。だからBekaも父親と話す時はウズベク語を使い、母親と話す時はロシア語で会話するんだって。ウズベクの歴史がよくわかる家庭だ。

そんな話で盛り上がりながら、しっかりとロシア語の役立つフレーズも教わり、定刻どおりの20時過ぎにタシケント到着。宿は日本からGrand Raddis JSSとのエコノミーホテルを予約済みだったので、タクシーで向かおうとするとBekaを迎えに来ていた友人が送ってくれることになった。話には聞いていたけれど、ウズベク人のホスピタリティはうれしい。

宿は一泊40ドル。ちょうどカウンターで今日同じ飛行機でやってきたという韓国人2人組とグルジア料理を食べに行く。彼らは明日到着するもう一人を加えた三人で、タシケント→サマルカンド→ブハラと旅をするらしい。僕とは逆周り。二人とも年も近く自然体なので話が盛り上がる。ラマダンで心配していたビールも問題なく注文でき、10時過ぎまで飲みブハラでの再会を誓って就寝。明日は朝7時の飛行機でウルゲンチまで行ってきます。

Written by shunsuke

2011年9月10日 at 12:35 PM

DAY1: 最終便で上海へ

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今回のウズベキスタン旅行。元々は8/13に広西の友人の実家で行われるミャオ族のお祭りに日本から行く予定だった。そこに節電休暇が重なったので、思い切って休んでウズベキスタンもミャオ族のお祭りも楽しんじゃえ!ということで行ってきました。

まずは初日、定時ジャストで会社を抜け出し成田からの最終便で上海へ向かう。今回北京からタシケントまでの航空券を南方航空(CZ)で購入し、日本と中国間、そして中国国内の移動はマイルで購入した。かなりギリギリのタイミングでの購入だったので北京行きが空いていなかったのでまず上海に移動することになったんです。

上海行きの中国国際航空は3×3列の上、機体もものすごくしょぼい。国際線なんだからもう少し見栄えよくしてほしいよね。上海到着は1時間ほど遅れて23時過ぎ。いろいろ話したい友人もいたけれど、明日の朝も早いので晩ごはんは機内食で済まし予約していた宿に直行してぐっすり寝る。

Written by shunsuke

2011年9月7日 at 9:11 PM

カテゴリー: 2011/08 Uzbekistan

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