人に学びて、自然とともに生きる

Never stop exploring, Keep your curiosity fresh

Archive for 10月 2011

国はあなたのことなんてこれっぽっちも考えていません

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外国にいると、国家について考えさせられることが多い。とりわけ、仕事で政府関係の人たちと接することが多かった南寧ではその機会が多かった。国民を戸籍で区分し、インターネットの情報をコントロールする。国が国民を愛しているようにはこれっぽっちも思えない中国なのに、国への愛を口に出す人は実に多い。翻って、僕は日本という国を愛しているのだろうか?日本人を愛しているのだろうか?日本は僕を愛してくれるのだろうか?何度もこれまで自分に問いかけてきたそんな言葉が、帚木蓬生(ははきぎほうせい)さんの「逃亡」を読んでまた浮かんできた。

召集されて赴いた中国大陸で憲兵となり、香港、広州で活動をしたのちに終戦を迎えた主人公の話。終戦後に武装解除が行われ、真っ先に逃げ出した軍人、身一つで逃げ出してきた民間人。憲兵は中国人たちの怨念を一身に受ける人身御供として、治安維持の名目で大陸に残り続けることが命令された。

その状況を察して、主人公は武装解除の前夜に組織を離れ民間人に名前を変えて帰国するも、戦犯として手配されて日本国内で逃亡生活を送ることになる。逃亡中に蘇ってくる香港の憲兵時代に摘発し死に至らしめた相手方のスパイの記憶。軍の命令で行ったスパイの摘発も、相手は非戦闘員である時点で戦争犯罪となる。

国によって徴兵されて戦地に赴き、軍隊の命令で行った憲兵としての行為が罪に問われる理不尽さ。その一方で終戦後、日本の旧占領地各地で行われた戦犯裁判、世に出ることがないB・C級戦犯に対する扱い、その中で裁かれていった憲兵たちの姿が直接・間接に描かれていく。

「一人殺せば殺人者で百万人殺せば英雄となる」チャップリンはそう語ったけど、まさにこの状況のことなんだよね。国なんて守ってくれない。ちょこっと状況が変われば手のひらを裏返したように、敵に回る。リビア国民という愛する息子たちに下水道管から引きずり出され最後を迎えたカダフィ大佐の姿が少し主人公にかぶった。彼も自分自身が国そのものだったはずなのにね。

戦犯を逃れた天皇陛下と、殺されたカダフィ。比較が強引なのは承知の上で、戦いの後の二人の姿があまりに対照的。反共との思惑があったにせよ、天皇陛下を許したアメリカはすごいよね。親族を殺された人たちからすれば、相手の親玉なんだから。天皇陛下万歳の方々にはソ連に感謝する必要があるはずだ。

ところで、この帚木さん。本業は医者とのこと。医者と作家って相性がいい。古くは森鴎外、斉藤茂吉、北杜夫。最近では「チームバチスタ」の海堂尊さんもそうだ。人の身体や心の病を治療していくことと、物語をつくりそれを言葉に置き換えて表現していくってことは意外に近い作業なのかもしれない。

考えてみればそうだ。外科にせよ内科にせよ、年齢や性別、身長や体重、食生活が異なれば同じような病巣であっても対処方法は異なってくるから、まったく同じ病状は一つとして存在しないはず。それはきっと一つのテーマに対して想像力を働かせて世界を築き上げていく作業に近いんだろう。コンサル的な論理的思考だけでなく直感的思考を交えた作業なんじゃないかな。

そんなことを考えた週末でした。本は全力でおすすめです。

逃亡

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帚木 蓬生
新潮社
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Written by shunsuke

2011年10月30日 at 11:18 PM

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DAY1: いつもながら職場を抜け出す

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ウズベキスタン帰国から一ヶ月、9月のシルバーウィークの休みを利用して南アフリカ諸国をぐるっと回ってきました。遅まきながらまずは初日。

16:55発のタイ航空にあわせて14時で仕事を切り上げて成田へと向かう。いつもながらまとまって休みをとる僕を気兼ねなく送り出してくれるわが職場。決算もないお客さんもいない職場だから比較的休みはとりやすくはあるんだけど、温かく送り出してくれることにはいつも感謝です。

最近はシンガポール航空ばかりだったので、久しぶりに乗ったタイ航空。オンラインチェックインをしようと思ったら、オンラインチェックイン自体が存在しなかったのはちょっとびっくり。でもごはんのおいしさとCAの丁寧さは日系の航空会社以上だと思うよ。何ていうか、いやみのない丁寧さなんだよね。仏教の為せる技なのかな。

バンコク到着は現地時間22時前。最初の目的地、ビクトリアフォールズまでは飛行機に3回乗って、28時間の長旅だ。ラウンジで休み1時過ぎの飛行機で次の目的地ヨハネスブルグへ向かいます。

Written by shunsuke

2011年10月29日 at 11:51 PM

カテゴリー: 2011/09 Southern Africa

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ジンバブエとナミビアで感じたこと

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少し前になりますが、9月16日から26日までアフリカの南部に行ってきました。国を挙げると、ジンバブエ、ザンビア、ナミビア。目的はビクトリアフォールズと、ナミブ砂漠でした。

そんな国々の印象を箇条書きしておきます。

・アフリカの大自然はとにかくすごかった。古い大陸だけに、何億年も刻まれた歴史の足跡が自然の中に残されている。たとえば、ナミブ砂漠の赤い色は5000万年かけて酸化鉄がつくりあげた赤。ビクトリアフォールズの地形は1億年前の地殻変動がつくりだした峡谷。ケニア、タンザニアもすごかったけど、大地のすごさを感じた南部アフリカだった。

・南部各国は過去にイギリス植民地(ザンビア、ジンバブエ)、ドイツ植民地(ナミビア)だったこともあって英語が広く通じる。そのせいもあって欧州からの観光客が半数以上を占めている印象。あとは豪州、アメリカが多い。リタイア後の夫婦がおよそ半数。

・今回リタイア後にゆっくり観光に来ている夫婦と話すことが多かった。ロシアからカリフォルニアに移住して会社をつくった夫婦、ブリスベンで農業やって5年に一回夫婦でちょっと贅沢な旅行をしている夫婦、結婚50周年の記念に36年ぶりにタイを訪れようとしていた南アフリカの夫婦。どの夫婦もいい年のとり方をしていた。人生を楽しむ余裕は僕も忘れたくない。

・ロバート・ムガベ大統領の暴政で悪名名高いジンバブエ。ハイパーインフレを起こしたジンバブエドルが2009年に廃止され現在は米ドルが流通している。100兆ジンバブエドルまで発行したけど、今は単なる紙切れでおみやげとして売られていた。今回、10人くらいにムガベの印象を聞いたところ、どこまで本音かわからないけれど誰一人として彼の悪口を言う人はいなかった。良くも悪くも建国の父なんだね。

・ナミビアはキャンプ天国。自然を愛するドイツ人が経営していた植民地だった影響か、極端に人口が少ない(人口密度2人/km2)国土の隅々までキャンプ場がきっちり整備されている。いつかレンタカー借りてキャンプしてみたい。

Written by shunsuke

2011年10月17日 at 12:13 AM

カテゴリー: 2011/09 Southern Africa

33歳の覚悟

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10月1日に誕生日を迎え、33歳になりました。

30歳になった時、少し世界が違って見えるのかなと思っていたけれど、変化は起きずにもう3年が経ってしまった。気がつけばあと2年もしたら四捨五入で40歳になってしまうのか。けっこういい年なんだな。

最近、ようやく自分の目指す姿、これから大切にしていきたいことがはっきりしてきた気がする。それは大雑把に分けて二つのこと。33歳のぞろ目を迎えた節目に忘れないように宣言しておきます。

一つ目は地球の自然を守り、資源を活用していくことに今後も携わっていきたいということ。山に登り、砂漠を駆け、海に潜る。自然に触れることのすばらしさを感じることができる世界を、自分のこどもや孫の代になっても残していきたい。

このことを考えるきっかけは、たしか10歳くらいの頃。父の実家に近くてその頃よく泳いでいた長良川に河口堰ができるとのニュースだった。紆余曲折あったけれど、僕の考えることってその頃から対して変わっていない。まあ、継続は力なりだ。

そして、もうひとつ大切にしていきたいことがある。それは価値観の異なる人たちとの間で、違いを認め合いつつ目標を共有していくこと。そういった環境に自分を置いて、そのワクワク感を今後も感じていたいということ。

それを初めて感じたのは学生の時、2003年の北京でのインターンだった。人種、言語、歴史背景。お互いバックグラウンドが違えば同じものを目指していても当然アプローチは変わってくる。違うもの同士で互いに違うことを認め合って一つのものをつくっていく、その過程が僕にはそれがとても魅力的に感じた。違いを認め合い目標を共有できた時、無限にアイディアが沸きあふれてくる世界の広がりを感じたんだ。あれから8年、それは確信へと変わっている。

小さい時から見知らぬ世界への好奇心を抱いていたのも、大学で国際関係学に興味を持ったのも、そして今でも仕事の合間を縫って見たことない世界に行きたいと思うのも、そのワクワクをずっと感じていたいからなんだ。こうして振り返ると、これまでの軌跡が一つの線でつながったような気がしている。

この二つを軸にして今後生きていく。そんな覚悟を持って33歳の時間を過ごしていきたいと思います。

Written by shunsuke

2011年10月16日 at 9:33 PM

カテゴリー: 自分のこととまわりのこと

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ウズベキスタン旅行Index

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日程:2011年8月4日~16日

■旅程
8/4 CA920 成田 (NRT) 1930 上海浦東 (PVG) 2150
8/5 CA1858 上海虹橋 (SHA) 0755 北京 (PEK) 1015
CZ6027 北京 (PEK) 1620 タシケント (TAS) 1935
8/6 1051 タシケント (TAS) 0700 ウルゲンチ (UGC) 0840 → ヌクス (Nukus) → ヒヴァ (Khiva)
8/7 ヒヴァ → モイナック (Moynaq) → ヒヴァ
8/8 ヒヴァ
8/9 ヒヴァ → ブハラ (Buxoro)
8/10 ブハラ
8/11 ブハラ → サマルカンド (Samarqand)
8/12 サマルカンド → タシケント (TAS)
CZ6028 タシケント (TAS) 2055 北京 (PEK) 0600 (+1day)
8/13 CZ3282 北京 (PEK) 1230 桂林 (KWL) 1520 → 資源
8/14 資源 → 桂林 → 南寧
8/15 ZH9593 南寧 (NNG) 1415 シンセン (SZX) 1525
8/16 CZ3831 シンセン (SZX) 1100 上海浦東 (PVG) 1315
NH960 上海浦東 (PVG) 1700 成田 (NRT) 2055

■日記
DAY1: 最終便で上海へ
DAY2: 肉好きパラダイス、上海
DAY3: ヌクス、禁じられたコレクション
DAY4: 消えたアラル海
DAY5: ドラクエの世界に迷い込んだ
DAY6: 時速200kmを初体験
DAY7: 文化の香りがする都、ブハラ
DAY8: 10年越しの憧れ、青の都サマルカンド
DAY9: レギスタンを封鎖せよ

ウズベキスタンの感想
ウズベキスタン番外編: 中国で灯篭流し

Written by shunsuke

2011年10月9日 at 4:49 AM

カテゴリー: 2011/08 Uzbekistan

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ウズベキスタン番外編: 中国で灯篭流し

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今回のウズベキスタン旅行は元々、南寧での野球の教え子が地元でのお祭りに誘ってくれたのがきっかけだった。タシケントから北京に到着した後、北京から桂林に飛び桂林でIKBさん、Aちゃん、KTRさんと合流して彼の実家広西自治区の資源県へと向かう。北京で予定していた便に乗り遅れてみんなを4時間も待たせてしまったけど、無事に合流。待っててくれてありがとう。

資源県があるのは広西自治区の北の端、山を越えたらもうそこは湖南省だ。野球の教え子、Z君とL君が待つ資源の県城に向けて、桂林で貸しきった車は120kmの道のりを進んでいく。最初はのどかな田舎道だったけれど、次第に山が深く勾配がきつくなっていく。

2時間とちょっとで資源県城に到着。バスターミナルで待っていた二人と8ヶ月ぶりに再会して、まずはZ君の実家に向かう。実家は県城の中心部の古い家が並ぶ下町にあった。お祭りの時期は近隣から人々が集まっていて、街はとてもにぎやか。門もお祝いモード。

建物は3階建て。もともとは県城でなくもう少し田舎に住んでいたけれど、3年前にこの家を建て替えて今は親戚たちと一緒にZ君の両親が暮らしている。階段をのぼって、親戚が暮らす1階、2階を過ぎて3階に向かうと宴会準備ができていた。

真ん中にあるメインの鍋は絞めたばかりの鶏を新鮮な内臓とともに煮込んだもの。この日のためにZ君のお父さんは2年育てた鶏を絞めてくれた。内臓系が苦手な僕でも食べられるくらい癖がなかった(とはいえやっぱり苦手・・・)。晩ごはんを食べながらお父さんが米からつくった蒸留酒が出てきて、途中からあまりよく覚えていない。気がついたら灯篭流しが行われる時間帯になって、僕らはZ君と親戚たちに連れられうじゃうじゃ集まった人たちの群れをかきわけ街の中心を流れる川沿いにやってきた。

この灯篭ながしのお祭りは”河灯節”と呼ばれていて、毎年旧暦の7月13日と14日に資源の県城で行われている。Z君のお父さんによると、元々苗族(ミャオ族)や瑶族(ヤオ族)が住んでいた資源では、昔から旧盆に歌垣などの行事があった。その後、漢族も移り住んできて漢族の習慣である先祖を弔うため灯篭流しが合わさって今のような祭りになったという。そんな灯篭流し、僕も酔っ払いながらも灯篭を渡されひとつ、またひとつと河に流してみた。

最初は大人しく灯篭を一個一個流していたものの次第に面倒になったのか8個くらいまとめて流し始め、こんな龍まで登場。獅子舞とかあるし、龍を流すのはなんとなくわかる。

最後のほうにはどうやってつくったのか白鳥とかうさぎとか、よくわからんものまで流し始めた。もともとは先祖の霊を弔うために灯篭を流していたと思うんだけど・・・豪華なものを流しちゃえ!って、とても漢族っぽいからよしとするか。

こうして混沌とした夜は更けていった。翌朝、散歩して川沿いを歩いてみると、昨日流した灯篭や諸葛孔明やらの残骸がうちすてられていた。祭りで興奮していたけど、ちょっと現実を見せ付けられた感じ。シュールだ。それにしても、そのまま下流まで流すものだと思っていたけどしっかり回収していたのね。

昨日は夜のカオスな状態しか見ていないので、朝から県城の中心を歩いてみる。川沿いに家々が並ぶ様子は鬼怒川温泉みたい。ここも近くに温泉があるんだけど、街中にあったらいいのにな。

街は朝8時なのにすごい人手。この祭りの期間中は、普段広州で働いているZ君やA君がここに来ているように近隣から親戚たちや観光客が集まって、普段10万人の人口が5倍にもなるんだとさ。道行く人の多くは野良仕事で日に焼けていたのが印象的だった。

朝ごはんはもちろん米粉。本場のここで食べなくてどーするよ。一杯2.5元(40円くらい)、めんはつるつるで米のほのかな甘みが二日酔い気味の胃にうれしい。汁なしで半分食べて、最後はスープも兼ねて汁を足してごちそうさま。

この国は田舎にいくといろんなことがあって面白い。バイクで走っている間に洗濯物も乾いて一石二鳥。これは頭いいね!

最後にZ君、A君、今回は色々とありがとう!Z君の家族からのおもてなし、うれしかった。南寧の時から二人からは教わってばかりで、感謝してもしきれないな。社会人二年目も頑張って!そしてお互い切磋琢磨していこう。

このあと僕は南寧に寄って日本に帰国。これにてウズベキスタン旅行記おしまいおしまい。

Written by shunsuke

2011年10月9日 at 3:50 AM

カテゴリー: 2011/08 Uzbekistan

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DAY9: レギスタンを封鎖せよ

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ウズベキスタン最終日。今日はこの国のハイライト、青の都の象徴であるレギスタン広場に向かう。その後、昼に鉄道でタシケントまで戻り、夜の飛行機で北京へと戻るので、ちょっと慌しい一日だ。昨日思ったより夕方が涼しくてのどが痛いなと話をしていたら、宿のおばちゃんがハチミツをお湯で溶かした飲み物を持ってきてくれた。

「小さい時から風邪を引いた時はこれを飲んで治したのよ」と宿のおばちゃん。心遣いがうれしいな。旧市街の奥まったところにあってアクセスはあまりよくないけれど、Legendおすすめです。


サマルカンドナンで朝ごはんを済ませて、さっそくレギスタン広場へと急ぐ。宿から25分ほど歩いて広場に着くと、何やら様子がおかしい。柵がまわりに張り巡らされていて、客席のようなものもセッティングされている。

ゲートに近づくと警備員らしき人に呼び止められ「No, entry」と告げられた。なんでなんで?警備員に指差された張り紙を見てみると、2年に1回の音楽祭が9月上旬にあり、それのリハーサルのため12:00-15:00までしか観光客は広場に入れないらしい。っていうことは、列車の時間が11時過ぎだから、ここまで来たのに僕はハイライトのレギスタン広場に入れないわけ?そんなのありかよ・・・あまりに悔しいので柵の隙間から望遠で撮ってみる。この中に入って雰囲気にゆっくり浸りたかったなあ。

とぼとぼと宿に戻っていくと、道すがらハローハローと子どもたちが話しかけてきた。文明の十字路、サマルカンドには東洋風の顔立ちの人もいれば、西洋風の顔立ちの人、見るからにアラブ系の人、ありとあらゆる顔立ちの人たちが暮らしている。なんか子どもたちに励まされた気分。

宿に戻りサマルカンド駅に行き、昨日ブハラから乗ったシャルク号を待つ。昨日は定刻どおりに運行されていたけれど、今日は定刻を過ぎてもなかなか列車は現れない。ナン売りのおばちゃんと話しながら時間をつぶす。女性は若い人も年配の人も、色鮮やかなワンピースを着ている人が多かった。どの女性も突き抜けるような青空に色とりどりの服がとても似合っていたな。

列車は30分ほど遅れて到着。昨日と同じく二等車(18ドル)でタシケントに向かう。途中信号トラブルがあったのか止まったり減速したりで結局タシケントへは通常2時間半で着くところ4時間かかり3時半に到着。それに加えて冷房がほとんどきいていなくてタシケントに着いたころには汗だくだった。

タシケントのプラットホームに降り立つと「暑かったわね」と女の子に日本語で声を掛けられた。話をしてみると、日本文化に興味があってタシケントの大学で日本語を学んでいるそう。 放射能垂れ流している上、正確な情報を伝えない国だけど、そんなわが母国に興味を持ってくれている人に会うのはうれしいね。

タシケントでは行きの飛行機で仲良くなったBekaとブハラで会った韓国人のトングンと最後のごはんを食べ、北京に向けて飛び立つ。

今回のウズベキスタンは、一週間ちょっとと僕にしては比較的ゆっくりとこの国に滞在できて、最初に聞いていたとおり地元の人たちのホスピタリティに感謝した旅だった。人をもてなすことって、こういうことなんだなと出会った人たちに教えてもらった気がする。 今は欧米と韓国、日本からの旅行者が中心だけど、この先中国人とかインド人とかの旅行者も増えてくるだろう。そうした時代になってもこの国を訪れた人たちが、僕が感じたような地元の人たちの温かさや優しさを感じられる国であってほしいな。ちょっと傲慢かもしれないけれど、そう願いたい。

Written by shunsuke

2011年10月6日 at 2:45 PM

三浦しをん 「神去なあなあ日常」

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三浦しをん「神去なあなあ日常」を読んだ。元々2年くらい前に会社の友人から送ってもらったのに読むのを忘れていて、片付け中にたまたま手に取った。Hちゃん、せっかくもらったのにほうっておいてごめんよ。

物語は、18歳の少年が高校卒業後に三重の林業の現場に放り込まれる話。狭く濃密な社会でヤマと生きてきた神去村の人たちに戸惑いながらも、自然を相手にする厳しさと素朴さに触れ、次第に仕事の面白さに目覚めていく主人公。

自然と向き合って仕事をしている人たちにしてみればあまりうれしくない表現なのかもしれないけれど、仕事のひとつひとつや祭りの描写に、そこに生きる人のたくましさと優しさが伝わってきて微笑ましかった。結局、雪が降ったり台風来たらどうしようもない、なるように任せるしかないんだよね。これが自然に向き合っている人たちの優しさであり、強さであるんだと思う。この本の中のセリフを借りれば「なあなあ」なんだ。林業に関わる者の端くれとして書いてくれた作者に感謝します。

ところで、この本に書かれているように日本の林業は厳しい。北海道を除けば林業用地はどこも急峻な山地で、雪も降るし台風も来る。だけど、世界に目を向けると新興国では木材の爆発的な需要が生まれて、自国だけではまかないきれず希少価値となっている。インドはマレーシアやインドネシアから熱帯の原木を日本の1.3倍くらいの値段をつけて買い付け、中国では工場着100ドルで合板材が売られている。

一方、戦後65年を経て日本では35~40年前に一斉に植えられた木が成熟しつつあり、いびつな構造ながらも森林資源大国となった。だけど、どこに何を売るのがよいのかマーケティングが何もできていない。今ある資源からどんな製品をつくることができて、それをどこの場所に売ることができるのか。逆に言えば、世界のマーケットでは今後何の需要が伸びて、今日本にある資源でその需要を満たすどんな商品をつくることができるのか。それを考える時期に来た。そう、今が日本の林業にとって大チャンスなんだ。

神去なあなあ日常
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Written by shunsuke

2011年10月5日 at 8:39 AM

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DAY8: 10年越しの憧れ、青の都サマルカンド

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この日は朝一番に列車「シャルク号」でブハラからサマルカンドへ移動する。宿には前日のうちに7時にタクシーが来るよう手配してもらったら、しっかりと時間どおりに迎えに来た。朝から「ハラショー」と陽気なおじさまのドライブで駅まで1台5ドル。

シャルク号はブハラからタシケントまでを結ぶ特別列車。ブハラからサマルカンドまでは3時間ちょっとで着く。宿で買ってもらった二等車に乗り込むと対面式のシートだった。広州とシンセン、香港を結ぶ広九鉄路もたしかこんな感じだったね。

列車は定刻どおり11時過ぎにサマルカンドに到着。古くは4世紀にアレクサンダー大王が「話で聞いていた通りに美しい・・・いや、それ以上に美しい」と言った場所。青の都、東方の真珠。2000年に昆明で留学している時に友人が持っていた旅行人シルクロードを見ながらいつか行きたいと思ってはや11年。3年前にはチケットを買うも出発5日前に薄利骨折をして断念したこともあった。そんなサマルカンドにようやく僕はたどりついた。と、到着しただけで感慨深くなってしまった。

駅からバスで街の中心部に向かうが予定していた宿のバハディールは満室だったため、そこから15分ほど歩いたところにある宿、Legendに向かう。炎天下の中少し迷ってかなり疲れたけれど、中庭に樹齢100年を越える大きな木が茂るとても居心地のよさそうなB&Bで、一部屋25ドル。

ヒヴァに三泊もしてしまったのでサマルカンドにいられるのは今日一日だけ。荷物を置いてウェルカムドリンクで出してくれたグリーンティーを飲んで一息ついたら街に出かける。ところで、ここウズベキスタンでは暑いときでも温かい紅茶(ブラックティー)か、緑茶(グリーンティー)を飲むことが多い。中国でも冷たいのは身体によくないって言って飲まないし、中米でもそうだったっけ。冷たく冷やしたものを飲むことができるのって、冷蔵システムを持っていて途切れずに電力が賄うことができるところだけなんだよね。

腹は減っては元も子もない、ということでまずは腹ごしらえ。レギスタン広場の北側にあるチャイハナに入り、これまで食べる機会のなかったラグマンを食べてみる。トマトベースのスープにこれでもか!と具がたっぷり入り、さらにこの下にうどんが隠れている。すごいボリュームだ。一見大味のように思えるけど、上に乗っかったパクチーが小気味よく効いていてすっと胃に入ってくる優しい味になっている。こりゃ、うまい。

お腹が満たされたところでまず最初に向かったのは中央アジアの英雄、ティムールが眠るアミル・ティムール廟。モンゴルではチンギス・ハーンが、アラブ圏ではサラーフ・アッディーンが英雄になっているようにここ中央アジアではぶっちぎりでティムールが英雄だ。チンギス・ハーンによって破壊されたサマルカンドを再建した男、ティムール。「豪華な墓などいらない」と言って死んだ彼だけど、死後にこんな立派な廟に一族ともども眠ることになった。ガイドブックによると、1941年にソ連の学術組織によってこの墓が開けられティムールが片足が不自由だったことなどがわかったという。死んで数百年経ってもゆっくりさせてもらえないなんて、英雄になるのも考えものだ。

この後はタクシーに乗り、一路丘の上にあるサマルカンド有数の聖地、シャーヒズンダ廟群に向かう。ここは7世紀に預言者ムハンマドの従兄がここで礼拝中に異教徒に襲われ命を落とした場所らしい。その後、ティムールの時代に宰相ウルグベクによって門が建設され、ティムールゆかりの人々が眠る聖地となった。青の都サマルカンドの中でも飛び切り青が美しい場所。

中は回廊になっていて、道の両側にそれぞれティムールの妹や妻、配下の将軍を祭った廟が並んでいる。どれも青を貴重とした見事な模様のタイル装飾で彩られていて、ただため息が出るような美しさだった。ヒヴァが素朴な美しさ、ブハラが文化の香りのする都だとしたらここサマルカンドは世界の中心だ。そんなことを考えながら進んでいくと左手に少し雰囲気の違う建物が見えた。これはクサム・イブン・アッバース廟、ここでモンゴル軍に破壊されずに残った唯一の建物で、この廟に3回詣でるとメッカに礼拝したことと同じとなるらしく、この扉は”Heaven’s door”と呼ばれている。見事な木彫りだ。

しかし、ここに3回詣でただけでメッカに行ったことと同じになるなんて、なかなか便利な話だ。チベットのマニ車も一回まわすだけでお経を読んだことと同じことになるし、宗教ってそういう遊び心が垣間見えるところが面白い。生活に宗教が根ざしている場所ほど、敬虔と呼ばれる人たちほど楽しみながら信仰に身を投じている、僕個人としてはそんなことを感じている。

「あんたたち、中は入ったの?どんな人でも入れるから見てきなさいよ」そうおばちゃんい言われてこの廟の入口を見てみると”The doors of paradise are opened to all believers”と書かれていた。どんな信者にも開かれている、そんな懐の深さがいいね。

中の廟はシンプルな壁面、だけど見上げた天井は他のどの廟よりも美しかった。

ティムールが愛した美しい妃を祀ったシャーディムルク・アカ廟。ここで最も美しいと呼ばれている廟で、壁面の模様だけでなく、扉や窓の装飾にいたるまで細部に美しい彫刻が施されていた。現存するのは復元されたものと聞いているけれど、ここまでしっかりとこだわった彫刻がなされているのはヒヴァ、ブハラではなかったな。

1時間ほどシャーヒズンダ廟にいたら、かなり日が傾いてきた。ここサマルカンドはヒヴァやブハラと違い標高700mくらいあるため、少し日が傾くとすぐに涼しくなる。廟を出てすぐにあるシヨブ・バザールに向かうと、夕暮れ時で店じまいが始まった頃だった。それでもまだ熱をもっているナン売り場をのぞいてみる。

ナンと聞くとインドのナンのような葉っぱ型のものを思い浮かべると思うけど、ここサマルカンドのナンはちょっと特別で、こんな形をしている。原料は小麦で同じなのだけどゴマをたっぷり使っている上、少し塩味があって噛み応えのある味なのだ。

「私のところのナンは特別よ。ここまで来たからには買って行きなさいよ!」とおばちゃん。そうは言っても、それ朝焼いたやつでしょ?また明日の朝に焼きたてを買いに来るよ。と言っておばちゃんから逃れる。でも、おいしそうだなー

「それじゃ、明日の朝は私のところのナンも買っていってね」と隣のお姉さん。なんかこういうやりとりいいなあ。普段の旅の中でも現地の人と触れ合う瞬間はあるけれど、市場の雰囲気や市場で出会う人たちの表情は格別だ。モノを売り、買う。そして食べ物をつくり、食べる。それらいろいろな欲が詰まっている市場には、昔から人間が積み重ねてきた本来の姿が垣間見れるんだと思う。それが古代からの通商都市、サマルカンドならばなおさらだ。

考えてみたら、今夜はウズベキスタンで過ごす最後の夜。やっぱりメロンを食べなくちゃ、そう思いナン売り場を離れると次は果物売り場に向かってみた。すると、「食べていきなよ」とこんなスイカがお出迎え。そのギザギザスイカには惹かれたけど・・・でもごめんよ、今夜はメロンってもう決めているんだ。このお兄ちゃんはかなり東洋系の顔立ちだ。さすが文明の十字路。

スイカのエリアを過ぎると慣れ親しんだ甘いにおいが漂ってきた。厚い皮から漏れ出るくらいの強烈な甘さ、メロンだ!

10分ほど鼻を近づけたりポンポン叩いたり、どれがおいしいか吟味した後1個3,500スム(1.5ドル)でメロンを購入。おっちゃん、ありがとう!

この日の最後にティムールが建築した巨大モスク、ビビハニム・モスクに寄る。この門を見てもらえればわかるとおりとにかくデカイ。10階建てのビルくらいはありそうな高さだ。1399年にインド遠征から帰ったティムールは、サマルカンドの街に大きなモスクがないことを嘆き、このモスクの建造を始めたという。メロン片手にモスク参詣はちょっと大変だった。

青の都、初日。美しい青色との出会いと、市場で人々の素のに触れることができて充実した一日だった。明日はいよいよれウズベキスタンのハイライト、レギスタン広場です。

Written by shunsuke

2011年10月3日 at 6:13 AM

DAY7: 文化の香りがする都、ブハラ

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今日はブハラを丸一日観光。部屋も豪華だったけれど、200年以上前の姿のままほとんど手をつけていない食堂はもっと厳かな雰囲気があった。梁にはぶっとい丸太を贅沢に使い、照明に使われているシャンデリアはロシアから運ばれてきたとのこと。まさに重厚という言葉がよく似合う、そんな部屋だった。

部屋以外の場所も程よく昔からの骨格を残した上にきれいに修復されている。その上無線LANも完備して朝食込みで35ドルは安いよ。ブハラで宿をお探しの皆さん、Komilをぜひチェックあれ。今ならweb予約限定で安くなるみたい(http://www.komiltravel.com/index/83728,0)。

ここブハラもヒヴァと同様20世紀初頭までブハラ・ハン国と呼ばれ、エミール(藩王)が統治する独立国だった。特にブハラのエミールは残虐であることで知られ、1870年代にロシアの影響下に入るまでは西洋からの旅行者が、イランやアフガニスタンを経由して命を賭けて目指す場所でもあった。そんな場所にこうやって会社の休みだけどピュ-っと来ることができてしまうんだから便利になったよね。別の言い方をするならば、歴史を知る者からしたら物足りないような時代なのかもしれないな。カラーンモスクの前でおやつを売っていたおじさんと話しながらそんなことを考えた。

この日は西の方まで足を延ばしてみる。まず訪れたのは中央アジア最古のイスラム建築と言われているイスマイール・サマーニ廟。892年から943年にかけて建設された霊廟なのだけど、13世紀のモンゴル軍襲来の際にはほとんど地中に埋もれていたためにモンゴル軍が気がつかなかったとのこと。土に埋もれていたということは当時の人からは大切にされていなかったわけで、大切にされていなかったがゆえに今の時代に残されたというのは皮肉だよね。

次に訪れたのは歴代の王たちが住んだアルク城。中は広かったのでガイドを5,000スム(2ドルくらい)で雇い案内してもらう。城の中には捉えられた旅行者や罪人を閉じ込めておく牢があったり、ロシア軍との攻防の際に城の上から落としたという爆弾の残りが保管されてあったりと、昔の姿を伝えてくれていて臨場感があった。写真は王が来客に謁見する時に使われていたという謁見の間。ガイドによるとこの場で「この者の首を刎ねよ!」と言ったこともあったとか。

このアルク城の中を見ていて思ったのだけど、木造で浮き彫りのデザインが施されている柱や壁の装飾などなどつくりはヒヴァのものとほとんど同じ。だけど、人同様すべてにおいてブハラもののほうが洗練されている感がある。ヒヴァの町並みや佇まいはとても好きだったけど、こうしてブハラの街と比べてみると、ヒヴァにあったのは朴訥なよさでブハラは文化が栄えた都といったところ。

アルク城を1時間ほど散策したあと、カラーンモスクに戻る。途中人だかりがある市場に寄ってみると宝石市場だった。宝石市場だけに女性ばかり。

そういえばウズベキスタンでは頭を包むようにスカーフをかぶっている女性を見かけることが少ない。同じイスラム圏と言っても断食もしないし、かなりアラブ圏とは違う。それでも夏の暑い日にはこんな感じでスカーフをしている女性が多かった。彼女、耳のピンクサファイヤがとてもきれいで印象的だった。


朝から歩き続けたのでこのあたりでお昼を食べ、昨日入り損ねたカラーンモスクに向かう。青い空の下、すべてがシンメトリーに設計された場所。ただただ美しい。1万人が一度に礼拝できるほどのこのモスクも、ソ連時代には礼拝が許されず倉庫として使われていたらしい。何かを盲目的に信じることは時にしてそれ以外の価値をすべて否定することにつながるんだね。心に留めておこう。

さすがに疲れてきたので、ここでタキ・テルパクフルシャンの近くにあるアラブ風呂、ハンマームに行ってみる。シリアやチュニジア、アルジェリアでこれまで何度か言ってみたけど、現地語しか通じないことが多かった。そんな経験から恐る恐る行ってみると、パーフェクトな英語対応。ここは300年前から同じ場所に残っているハンマームで、外国人も多いらしい。そんな場所を貸しきって、パンツ一丁のひげもじゃオヤジとマンツーマンでサウナ、あかすり、マッサージ。計20ドルなり。現地価格からはほど遠いけれど、マッサージはかなり気持ちよかったのでまあよしとする。彼がホモでなかったので、それもよしとする。

夜は再びカラーンモスクの広場に戻ってきて、ライトアップを眺めながら晩ごはんを食べる。途中、ウォッカのビンを持ったお兄ちゃんがやってきて写真を撮るのを頼まれたことをきっかけに「日本に乾杯」「ウズベキスタンに乾杯」「今度のワールドカップ予選に乾杯」と乾杯攻撃を受けて、あえなく酔っ払う。指差し会話帳フレーズがこんなところで役に立つとは。ライトアップは美しかった。ウォッカを飲んだ後の姿はもっと美しかった。

Written by shunsuke

2011年10月2日 at 10:04 PM