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Archive for the ‘日本のことや世界のこと’ Category

震災後一ヶ月の率直な気持ち

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地震から一ヶ月が過ぎた。まだまだ収束の気配すら見えない原発事故。率直なところ放射能は怖いです。きっと政府が発表している数字よりも風に乗ってヒトデのようにいろいろなところに散らばっているんだと思う。だからできるだけ外出の時はマスクをしている。メガネくもるから最近はあんまりしてないけど。

一方で、今回ほど自分が日本人であることを強く意識した時はなかった。マレーシアでは、現地の友人から「こちらに逃げてきたほうがいい、いつでも住むところはあるよ」と声をかけられた。中国の友人からは「なんで早く東京から逃げないの!」とたくさんしかられた。彼らの気持ちはよくわかる。僕が彼らの立場だったら同じことを言っていたと思う。

本音を言えば怖い。今すぐ逃げ出したい。だって、もし爆発したら東京にいる人はジ・エンドでしょ。東京にいる人は心のそこではそう思っている人も多いんじゃないかなと思う。臆病者の僕は何度も本気で会社辞めて逃げ出そうと考えた。

だけど、ここ日本には家族も友もいる。そしてなによりどんなに長く他の国と関わろうと、どれほど深く他の国の言葉や文化を理解しても僕のアイデンティティはここ日本にどっしりと根付いている。それを痛いほど感じた一ヶ月だった。

自分はどこでも生きていける人間だと思っていたけど、どこでも生きていけることと、アイデンティティが根付いた場所を大切に思う気持ちはまったく別物なんだよね。中国でもアフリカでも生きていくことはできると思うけど、仮に日本という場所がなくなってしまったら僕は生きていくことはとても難しくなる気がする。

僕のじいちゃんのじいちゃんたちが明治維新を成功させて、じいちゃんや父親の世代が戦後の日本をつくりあげて、そのおかげで僕らは今ここにいる。そして、僕らは祖先から託されてきた日本人としてのバトンをしっかり受け継いでいかなくてはいけないんだ。僕らの子どもや孫やそのまたずっと先の代にも日本という国が世界に誇れる場所であってほしい。

今回の一連の地震と原発の事故を経験して、そう痛切に願うようになった。

Written by shunsuke

2011年4月17日 at 11:28 PM

2021年3月11日へのビジョンを考えてみた

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前回、最悪なシナリオを書いてみたので、今回は目指すべきビジョンを想像してみたいと思います。もちろん素人が妄想したフィクションなので突っ込みどころ満載ですが、その辺は非難より建設的な意見をお願いします。

2021年3月11日、この日に発表された2020年の関西国際空港の旅客数が初めて成田空港を超えた。2011年3月11日以降、日本の国のあり方と地域の概念が大きく変わったことを象徴した出来事だった。

その変化のきっかけをつくったのは関西にルーツを持ち東京に本社を置いていた企業だった。2011年の夏に大幅な電力不足が懸念されたため、近江商人の流れを汲む商社をはじめとする多くの関西系企業が大阪に本社を移し始めた。歯に衣着せぬ発言で知られる大阪府知事は、東京から大阪へ本社移転をする企業に対して、千里山など空き部屋が目立つ団地の安価での社宅供給を申し出た。この府知事の提案は全国に広がり、北海道や九州に工場を持つ企業に対しては、自治体の多くが無償や低価格での社員への住宅提供を申し出た。結果、東京一極集中だった日本の産業構造が変わり始めた。なんか日本変わりそうじゃない?そんな雰囲気が世間に流れ始めた。

そんな流れを受けて、巨大地震からの復興を促進させ、投入した復興費用を効率よく使うことを目的として政府は道州制の導入を決めた。北海道特別区、東北、関東、東京、東海、北陸、関西、中国、四国、九州、沖縄特別区。日本は10の地区に分けられ法人税、所得税、住民税、相続税など国税と行政サービスの7割以上が委譲された。東京からの本社機能移転に際して住宅提供が行われたように、各地区で争うように産業誘致、産業振興のための施策が実施された。-日本は変わり始めた-その段階で多くの人がそう確信を持つようになった。

その中でも特筆すべきは東北、関西、沖縄だった。

地震で壊滅的な被害を受けた東北地区は復興に際し、地震を逆手にとった戦略を描いた。地震で被災し住みかと全財産をなくした人向けに、東北新幹線の駅から1km圏内の場所に新しい街がつくられた。東北地方では原発を廃止し、豊富なバイオマス、地熱、風力を使った地域発電システムを各地域で整備していった。それらは世界の中でもスマートシティ、エコシティのシンボルとなり、大規模災害からの復旧モデルとして世界中から視察が訪れた。この復興プランをデザインした東北復興公社は、地震・津波への災害リスクヘッジコンサルタント、復興デザインコンサルタントとして世界中から仕事が舞い込んできている。これも復興計画の際に目先にとらわれず、復興を産業振興と結びつけた政府のビジョンのたまものだった。

このスマートシティのために開発された低電力のデバイス、高燃費のタービン、高性能の電池は世界を驚かせた。世界中で脱原発が進む中、電力効率を画期的に改善させた東北発の製品は世界中で引く手あまたとなった。逆境こそチャンス。原子力の脅威を感じた国民だからこそそれに頼らず電力を供給していくことができる、その情熱が生んだ技術だった。

残念ながら福島第一原子力発電所付近の土地は放射能に汚染されてしまった。30km圏内は人の居住が制限され、80km圏内の農作物は放射能検査が義務付けられた。政府は30km圏内に居住、農業を行っていた人の土地を買い取り、80km圏内の土地も希望があれば多少安い価格ではあったが買い取り補償を行った。そして政府は30km-80km圏内を特別区とし、従来の土地使用規制をすべて撤廃しほぼタダ同然の価格で希望者に貸し出した。従来の法規制では日本ではできなかったバイオ実験や実証プラントがこれらの土地で行われるようになり、そこから後ほど出てくるバイオ産業などブレイクスルーが生まれた。人がいなくなった土地だからこそできた、汚染を逆手にとったアイディアだった。

関西地区は淡路島を経済特区として関税を10年間無税にすることを発表した。関空から高速フェリーで20分足らずで結ばれ、自然もたくさん残っている島は東京から本社を移した企業にとって最高の場所だった。東大阪を代表とする地場企業の実力もあり、次第に日本企業だけでなく多くの外資企業が淡路島に研究開発拠点や技術開発拠点を移してきた。中国にはない日本の自然とグルメ、そしておもてなしが多くの外国人をひきつけた。一番人気は明石のタコ。そして、ここでも必要とされる電力の半分が波力と地熱でまかなわれていた。鳴門の渦潮がこんな形で役立つとはタコもびっくりだ。

沖縄はもはや日本の一部とは思えないコスモポリタンな場所となった。淡路島同様タックスフリーゾーンとなった沖縄特別区には多くの台湾、中国系企業が進出した。もともと米軍基地があり英語文化があった影響で日本語、英語、中国語がこの地では飛び交うようになった。「ダイジョブラー」今日も那覇のダウンタウンではそんな言葉が飛び交っている。英語と中国語が広範囲で通じることもあり、手付かずの青い海を目指して多くのアジア人が訪れるようになった。「沖縄では誰もごみを捨てないの」ゴミだらけの三亜ビーチしかしらなかった西安出身の陳夏華さんは初めて訪れた沖縄に感動し、今では波照間島に毎年通うようになった。2020年には沖縄を訪れた外国人は500万人を突破し、那覇の空港は日本で3番目に乗降客の多い空港となった。

そんな日本の変化を演出したのは日本人のメンタリティの変化だった。地震と津波、その後に発生した原発からの放射能漏れ事件と、それらをリアルタイムで伝える映像が日本人のメンタリティと考え方に大きな影響を与えたのだった。全財産があっさりと津波で流されていく、テレビの画面から映し出されたその画像を見て多くの日本人が思った。お金を溜め込んでも使わずに死んでしまったら、使わずになくなってしまったら意味がない、今を楽しまなきゃと。

こうして日本人のラテン化が進んだ。戦前に鬼畜米英と言っていたのが、戦後には民主主義ばんざーいと言うようなそんな劇的な変化だった。

エコノミックアニマルと呼ばれたのも今は昔、今では有給を毎年消化しない人間は変わった目で見られ、一ヶ月の夏休みをとることが当たり前となった。10年前はバカンスの代名詞と言えばフランス人だったが、今では日本人がその地位を脅かしつつある。

日本人のラテン化で個人資産が動き出した。まず変わったのは団塊の世代だった。高度成長期を生きタンスに溜め込んだ彼らの資産が市場に流れ始めた。元々「日本を支えてきた」との自負のある世代、その彼らが活発に消費、投資を始めたのだった。これまで団塊の世代と言えば、地域コミュニティの活動には消極的な人間が多かったが、地震によって活発化したコミュニティの活動を通じて多くのベンチャー企業が生まれた。いまや世界中から注目される小林健吾さん(71)はその中でも出色な存在だ。

関東地区に住む小林さんはバイオ関連企業の研究員だった。定年退職後、同じ地区に住む同様のバックグラウンドを持った人間とバイオ研究に特化したベンチャーを立ち上げた。福島原発の影響により特別区に指定された土地をタダ同然で借り受け、そこで通常ではできない遺伝子組み換えキノコの栽培を始めた。彼らがキノコから採取した成分はガン細胞の細胞分裂を抑制し、細胞を正常化させる働きがあることが昨年発表され、小林さんはTIME紙の表紙を飾った。

政治家と官僚も変わった。地震の前は政治家や官僚と言えば事なかれ主義と呼ばれ「前例がありません」や「前向きに対処いたします」が口癖だったが、今では「ほな、やってみましょうか」が口癖となった。これは2013年に流行語大賞にもなった関西出身の首相の言葉だ。道州制を決断した首相の英断がきっかけとなって、官僚組織にも危機意識が伝わり柔軟性のある組織となっていった。官僚たちも人間。いつ死ぬかわからないんだったら楽しく仕事しないと。地震から得たその教訓が硬直化した組織を変えたのだった。

ラテン化を象徴するかのようにうつ病患者は目に見えて減り、10年前年間3万人を超えていた自殺者は1万人未満となった。地震で3万人近くの命が失われたが、地震によって人々のマインドが変わったことで毎年2万人以上の命が救われることになった。みんな楽に生きるようになったのだ。楽に生きた結果、なぜか地震前よりも労働生産性はあがった。おまけにラテン化が進んだことで精神的ストレスが減少したのか、もともと長寿だった日本人の平均寿命はさらに延びてしまった。以前は何日も前から診察予約が必要だった精神科には閑古鳥が鳴き、数人の精神科医は収入源による生活苦により自殺してしまった。笑えない話である。

少子化は劇的に改善に向かった。地震の翌年、厚生労働省が発表した合計特殊出生率は前年を大きく上回る1.71を記録し、世界を驚かせた。地震と津波、放射能汚染による不安は都会で一人暮らしをしている若者に多くの不安感を与えた。災害が家族の絆の大切さを思い出させ、多くの若者が困難な時に愛する者と一緒にいることのできる安堵感を求めたのだった。そして2年間続いた首都圏の計画停電がそれに拍車をかけた。オフィスの冷暖房抑制、鉄道の混雑緩和のため自宅勤務者が増え、夫婦が一緒にいる時間が増え、停電となった地区では愛をはぐくむこと以外にやることがなかったのだ。とりわけ2012年1月から2月の間に生まれた子どもは多かった。地震の不安におびえる中、皆愛する人のぬくもりを求めたのだ。その後も出生率は2.0近くで推移しており、ブライダル産業は活況に満ちている。

何をするにしても一人ひとりの心の持ちようで世界は変わる。こんな10年後になればいいなと、僕はそう思ってます。みんなはどうですか?

Written by shunsuke

2011年4月4日 at 2:42 AM

2013年3月11日の日本を想像してみた

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※この話はフィクションです。てきとーに読み流してください。

2013年3月11日。この日銀座4丁目の交差点に店を構える百貨店が最後の営業を終え、80年以上続いた歴史に幕を閉じた。この百貨店は2010年に海外からの観光客を意識して増床したが、それが経営を圧迫、2月に民事再生法を適用した。これで2013年に入って4件目の東証一部企業の経営破たんとなった。

日本は2011年3月11日の地震によって変わってしまった。

いや、正確な言い方をすれば地震後に発生した原発からの放射能漏れ事件と、その事件に対する日本政府の対応ですべてが変わってしまった。地震発生後に制御不能になった福島第一原発への対処に際し、政府は漏れ出した放射能の数値を公表せず、ただ「安全です!」との何の科学的根拠もない言葉を繰り返した。さらにその後国内の食品の放射能規制値を引き上げるという愚行に世界の日本政府に対する不信感はピークに達した。

原発の問題が明らかになった後、最初に行動を起こしたのは在日外国人と日本に支社を置いていた外資系企業だった。見えない放射能から真っ先に逃れようと成田空港には外国人が殺到し、欧米の日本支社は香港やシンガポールに移された。

その後、日本と外の世界との人の往来が激減した。

政府は1,000万人の訪日観光客を目指していたが、2011年3月を境に訪日客はバタリと絶え、2011年の訪日外国人数は対前年度比74%減の200万人となった。そのうち2月までに140万人が訪日済みだった。香港の大の日本好きLauさん(32)はこう語る。「これまで年に2、3回くらいディズニーシーとか遊びに行ったりしていたけど、さすがに行かないわ。日本はもちろん好きよ。スシもラーメンも大好き。でも好きなのと行くのは別。だって放射能は浴びたくないもの」

東京を極東のハブとしていたユナイテッドとデルタ、両エアラインはそれぞれ香港とソウルに極東のハブを移した。引き続きアメリカにとって日本が大事な同盟国であることは変わりない。ただ訪日客の需要がなく、乗務員の安全に影響を及ぼすような可能性のある東京をハブとしている理由はすでになかった。

日系航空会社は悲惨な状況だった。乗客客、貨物数が50%超減少する中、2011年度末に二大エアラインは国営化され統合した。従業員の給与は40%カット、高給の象徴であったパイロットの給与は50%を超えるカットとなった。

東京のホテルは軒並み休業を決めた。真っ先に休業を決めたシャングリラホテルの東京支配人はその英断によりCEOとなり、大手外資ホテルの多くは東京を撤退した。訪日客を当てにしていた観光地は壊滅的だった。

原発の原子炉は地震発生から1ヵ月後にようやく冷却に向かったが、大気中への飛び散った放射能は雨や風に乗って東北、関東各地へ飛散していき雨となって海水、河川や地下水、そして土壌へと蓄積されていった。各国は日本から輸入品に対する放射能検査をはじめ、EUでは日本からの食品輸入が全面的に禁止された。「安全です!」との防災服を着た首相の言葉にも関わらず世界各地で各国の規制値を超えた放射能が検出される日本製品に、日本ブランドの評価はがた落ちとなり、原発事件とは関係のない四国や九州でつくられた製品もMade in Japanというだけで輸入禁止となった。

この動きを受けた日本メーカーの対応は早かった。世界市場で生き残るため、各社は生産工場を他国へ移し始めた。すでにタイで主力車種の生産を始めていたある自動車メーカーは真っ先にすべての日本国内の生産拠点を閉鎖することを決定した。斬新な製品で知られる電機メーカーもアメリカ人社長が本社をシンガポールに移すことを発表した。世界各国の幹部が会議をするのに東京に行きたくないというのが最大の理由だった。10年後にはブランド名が英語のその会社を、もともとは日本企業だったと知る人すら少なくなるだろう。どちらの会社の判断も、Made in Japanというだけで製品が受け入れられない現状を考えるとしごく当然の判断だった。

日本と外の世界とのモノの往来も激減した。

“安全な日本、信頼できる日本製品”戦後長い間かけてコツコツ積み上げてきた、日本ブランドに対する信頼はあっさりと崩れ去った。

政権は地震の前に法人税を35%にする閣議決定をしていたが、そんなものは何の意味もなかった。たとえ法人税を1%にしても東京に本社を移し、日本に税金を納めようという企業はいなかった。放射能に汚染されるということは、その土地が世界の人とモノの動きから取り残されること。2011年度の法人税収入がほとんどゼロとなる見込みになった時、一年間作業着を着続けた首相は自分の「安全です!」との言葉を誰も信じていなかったことにようやく気がついた。

地震後日本から原発は消えた。各地で地元のバイオマスや自然エネルギーを利用した小規模発電が広がった。地震発生後は節電のために街の明かりは暗くなったが、今ではどの街もネオンが輝いている。日本の製造業の多くが拠点を閉鎖したため原子力発電に頼らなくても電気はまかなえるようになったのだ。ただ今更原発をなくしても、いったん放射能に汚染された土地はすぐには元通りにはならない。放射能同位体の一つストロンチウム90の半減期は30年もあるのだ。

絶望的な状況の中でも日本人は頑張り続けた。地震でひび割れた東北自動車道は2ヶ月で全面復旧し、津波で流された街は2年のうちに再建された。世界はその日本人の不屈の精神を讃え続けた。しかし、現地を取材する人間はみな拠点を閉鎖したためほとんどいなかった。それとは別に優秀な高校生は東大に行くよりもハーバードや北京大学、シンガポール国立大学に進学するようになった。もはや日本国内と世界を結ぶような仕事は圧倒的にパイが小さくなっており、グローバルに活躍するならば日本を飛び出すのが手っ取り早かった。海外に飛び出した若い才能たちが唯一の希望となった。

輸出が激減した結果、財政収支に加え貿易収支も大幅な赤字となり、日本の国債が世界中から注目されることとなった。地震後災害復興を名目として国債発行高は急増し1,000兆円を超えた。そして、昨年末から金利もじわりと上昇しつつある・・・

ということで、政府のみなさん。もうすでに遅いかもしれませんが、あまり適当な対応ばかりしていると世界から完全にそっぽ向かれますので、事実をそのまま国民、世界の皆さんに伝えてくださいね。

Written by shunsuke

2011年3月27日 at 5:38 PM

台湾からのメッセージ

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今夜10時くらいのこと。出張先のホテルに帰ってテレビを着けたら、台湾のTVBSで日本の地震の被災者のためのチャリティー番組をやっていた。その名も「送愛到日本」。生放送で1億1420万台湾ドル(約3億円)の義援金が集まったとのこと。

台湾もよく地震が起きる国で、1999年には2,000人以上が亡くなる大きな地震も起きている。僕もその時に募金をしたことを思い出した。そんな地震の怖さを知る国から届いた愛、いち日本人としてうれしいよ。

地震発生から一週間。僕はまだ32年間しか生きていないけど、こんな混乱した母国の姿を見るのは初めてだ。真っ暗な原発でぎりぎりの仕事をしている人たち、寒さがぶり返した被災地で避難生活を過ごす人たち、計画停電で不自由な暮らしの中にある人たち。そんなすべての人たちに世界中からの愛が届きますように。

Written by shunsuke

2011年3月18日 at 2:16 AM

カテゴリー: 日本のことや世界のこと

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銀座で過ごした震災の夜

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金曜の午後、僕は少し高揚状態だった。

金曜の夜便で香港へ行き週末は旧友と香港でリラックスするために、先週からかなり力を入れてきた報告が午後一番で完了したところだった。すべてはスムーズに退社するために、そのために今週は全力を尽くしてきた。

報告が終わり、次の月曜からは一週間出張でいなくなるので、その作業にとりかかろうとしたところ、地震はやってきた。最初は小刻みに震えだして、そのあと縦ゆれがやってきた。そして数十秒後には横揺れが始まった。

ビルの11階にあるオフィスは2階から4階がコンサートホールになっていることもあり、通常のビルの15階くらいの高さにある。その高さもあってか、揺れはものすごくてとても仕事は続けてられず部署のみんなで机の下にもぐりこんだ。横揺れでグラグラと揺れるビル、きしむ天井。このままポキッて折れちゃうよ!とみんなで叫びながら揺れが収まるのを待った。デスクから落ちるファイル、ガシャーンと棚の上から落ちて壊れる地球儀。被災地の方からすると大げさかもしれないけど、このまま死ぬのかなとちょっぴり死を覚悟した。

数分してようやく揺れが収まり立ち上がる。ビルのせいか揺れが収まっても建物はしばらくグラグラと揺れていて、まるで荒れた海の中を航海している船に乗っているようだった。ああ、助かったとほっとしてテレビをつけてみる。震源地を聞いたとたん、東京でこの揺れなのだから東北は大変なことになっているだろうとある程度の察しはついた。

ふと我に返り、フライトの時間を確認する。フライトは18時40分、16時過ぎにはオフィスを出ないと間に合わない。「電車止まってるだろ」と同僚から言われながらも、とりあえず成田空港に向かおうと余震で小刻みに揺れるオフィスを後にしてまずは銀座線で上野まで向かおうとする。もちろんオフィスのエレベータは止まっており、スーツケースを持ちながら長い道のりを下り3分くらいかけてようやく地上にたどり着く。

銀座の町は思ったより人通りが少なかった。松屋から地下に下りてみると案の定銀座線はストップ、どうやら東京メトロは全線止まっているらしい。気を取り直して1kmほど離れた東京駅まで行ってみる。道中時々すれ違う救急車以外は普段と変わらない町並、ただ東京駅に近づくにつれ人が多くなり、最後はスーツケースを引いて歩くのが困難になるくらいだった。

たどり着いた東京駅は入り口のガラス戸が閉められ一般人は立ち入り禁止。空港までのバスも全線ストップ。成田に向かうのは諦めてまだ営業していたサンマルクカフェに寄ってパンを大量に買ってオフィスに戻る。東京でもすごい揺れで交通機関がすべてストップしていたのにも関わらず、通行人もお店の人たちも怒号をあげることなくいつもの街の姿があったのが印象的だった。写真は扉が閉ざされた東京駅。

オフィスに戻り成田空港も閉鎖されたことを知る。今考えてみると電車動いているわけないのだけど、その時はとにかく空港に向かうことに必死でそこまで頭が回っていなかった。もう仕事も手につかないので、同僚たちとテレビを見ながら津波被害のすさまじさを目の当たりにし、改めて地震の大きさに気づかされる。定時以降も交通機関が回復しないので、歩いて帰ることができる人(10kmくらい)以外は全社員待機の指令が出て、仕事しているのか時間をつぶしているのかわからないような時間が流れる。

18時には備蓄食料を配ります、との社内アナウンスが流れ皆で非常階段に並びバケツリレーで地下から食料と水を持ち上げる。配られた食べ物が乾パンだけだったので、その後食料探しに外へ出てみると、コンビニの水と食料はからっぽ。閉店間際の三越のデパ地下に行くと、まだまだパンと惣菜があったので大量に買い込み職場に持って帰る。やっぱりおなかがすくと気持ちもすさむから、こういう時こそ可能なかぎりおいしいものをみんなでシェアしないとね。乾パンと水しか配られなかったので、みんな喜んでくれたのがうれしかった。

三越は20時の閉店前後もまだ帰ることができないのか客がかなりいて、椅子に腰掛けていた。アナウンスによると帰ることができなくなった人たちのために8階かどこかを開放したらしい。隣にあるわがオフィスも立地としては最高なんだからホールや1階を開放すればよかったのに。そう思ったけど、企業としてはやりにくいか。

一向に解除されない待機命令。埋立地を走る京葉線は弱そうだし一晩過ごすことを覚悟する。とはいえやることも限られてくるので、上司や友人と打ち合わせ会社そばの雀荘へ行き朝までマージャンをやって過ごす。マージャンをやりながらも流されるニュースで克明になっていく甚大な被害状況。そして刻一刻とつみあがっていく僕のマージャンの負け金額。結局朝になった頃には、香港で遊ぶ予定だった金額と同じくらいの負け額がつみあがっていた。

被災地の人たちを考えると不謹慎かもしれない。だけど、帰る手段がなくて過ごさなきゃいけない一夜を過ごすには、10分ごとおきくらいに余震が続いてその度におびえるような夜を過ごすからには少しでも楽しく過ごすべきだと思った上での判断だった。判断は正しかったけど、捨てる牌は間違えたようだ。

翌朝、まだ動いていない京葉線を諦め、銀座線で上野まで出て京成線を使って千葉まで帰る。

形成上野駅では警察官と職員総出で乗車規制を行っていて、みんな一列に並んでいた。場所がら成田空港まで行く人も多く外国人も多い。そういう人には誰からともなく言葉を話せる人が通訳していた。

飛行機に間に合わせるために急いでいる人もいたと思う。だけどみんな譲り合いながら怒号が交わされることなく並んでいた光景を見て感動した。一つの目的を共有した時の日本人の団結力はすごい。大げさでもなんでもなく世界一だよ。

自己主張が少ないし、何を考えているのかわからない人も多いけど、日本人はすごいよ。マッカーサーが今日の光景を見たら『これがカミカゼを可能にした精神か』と恐れるはずだよ。僕はこの上野駅の光景を誇りに思う。

家には15時くらいに到着。今夜からは羽田発で出張なので、今からパッキングしなおして行ってきます。

Written by shunsuke

2011年3月13日 at 1:51 PM

アラブの世界で何が起きているのだろうか?

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No one pretends that democracy is perfect or all-wise. Indeed, it has been said that democracy is the worst form of government except all those other forms that have been tried from time to time.

民主主義が完全で賢明であると見せかけることは誰にも出来ない。実際のところ、民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば、だが。63年前、1947年のウィンストン・チャーチルの言葉。大学時代の国際政治の授業で聞いたそんな言葉を、ここ最近の報道で思い出した。

2010年12月17日、チュニジア南部の小都市シーディー・ブーゼイド(Sidi Bouzid)で、野菜を露店で売って家族を支えていたムハンマド・ブーアズィーズィー(Muhammad Bu Azizi)という26歳の青年が、無許可販売の摘発で受けた屈辱に抗議して、市役所の前で焼身自殺した。この出来事がチュニジア全国で、そして北アフリカや中東のアラブ諸国全体で注目を集め、デモを惹起した。その後2011年1月14日のベンアリー政権の国外逃亡によってあっけなくチュニジアの政権は崩壊した。

そしてそのチュニジアの政変以来、アルジェリアやイエメン、エジプトなどアラブ各国で現政権に対するデモが相次いでいる。エジプトは30年にわたりムバラク大統領が国を率いてきた独裁政権の国。やっていることに差がありはするけれど、政治体制としては「人権を脅かしている」とアメリカに指摘されている北朝鮮やイラン、中国と対して変わりははしない。

そんな場所で国民が政治に不満を表面に出し始め、デモが相次ぎ政治体制にほころびが出始めている。インターネットと携帯電話が普及する前、独裁政権はマスメディアをコントロールしていればそれで問題なかった。自分たちに不都合なテレビ番組は許可せず、自分たちの批判をした編集長はクビにすれば国民に対する情報をコントロールすることができた。

今は違う。政府が新聞やテレビをコントロールしても携帯電話のショートメールでカイロの町のタフリール広場の前でエジプトの誇りエルバラダエイ氏がデモに参加していることを隠すことができない。どれだけ中国共産党がGreat Firewallをで防いだところで、人民は他の国のVPNを通じてfecebookやyoutubeにアクセスをし、ウルムチで起きていることをリアルタイムで知ることになる。

インターネットと携帯電話は世界の前提を大きく揺さぶっている。もしかしたら、これが「ウェブでの民主主義」を理念のひとつとしてきたGoogleが目指した世界なのかもしれない。Google創業者の一人Sergey Brin氏は、6歳近くまで全体主義体制が敷かれたソビエト連邦で、政治的な発言が検閲される中で過ごした日々が今のGoogleの信念に大きく影響を及ぼしていると語っている。

これってこれまで世界中のいたるところであまたのように繰り返された革命とは一線を画すもののような気がする。米ソ冷戦時代に起こったイデオロギーに基づいて両大国が裏で手を引いていたものではなく、資源分配など利益集団の衝突によってもたらされたものでもない。おそらく裏にそれぞれの意図はあるものの、多くの民衆が自発的に情報を共有し起こした行動だからだ。

世の中を変えるには政治家になるよりGoogleに入ったほうがいい。

いや、それよりもweblogなりfacebookなりで自らのメッセージを発信するのがいい。

ウェブの世界では誰もがメッセージを発信できて、誰もがリーダーになることができる。そして今、そのウェブの世界が現実の政治に大きな影響を与え始めた。人々の琴線に触れるメッセージを発信し続けて、それをネットワークに乗せ共有することができれば、人を動かし大統領は亡命するのだ。これを民主主義といわずして何と言おう。

いつも強引に中国ネタになってしまうのだけど、この状況を世界のどの国よりも危機感を持って見守っているのが中国なんじゃないかと個人的には思ってる。独裁政権の腐敗と若者の高失業率、格差の拡大。今回一連のデモの原因と言われている状況をそれよりも大きな規模で内包しているからだ。そして、いったん火がついたものをコントロールすることが難しいことを彼らは身をもって知っているはず。1989年にね。

率直なところ、今このタイミングでこの北アフリカの動きが中国に飛び火することは可能性が低いとは思う。だけど、今の中国の政治経済システムと社会の状況は許容範囲を超えている。去年中ごろから顕著になっている食品の高騰とかがきっかけとなって何かが起こっても不思議じゃない。親戚の党幹部から情報を得て不動産で設けてきた中国全土の李剛たちはびくびくしているに違いない。

「インターネット上での動きはなんとか人を動員すればチェックすることができる。だけど携帯のショートメールでリアルな関係性を通じてデモの情報が流れたらチェックすることができない」尖閣問題で各地で反日デモが行われていた去年の10月、1年で最大のイベントを前に広西自治区の党委員会の人間がこんなことを漏らしていたのが印象に残っている。日本では官製デモなどと呼ばれていたけれど、実際にそれほどコントロールが可能なわけでもない。上海など大都市で起きなかったのは、ただ財布も心も比較的満たされている人が多いのと、警備が厳しかったことが理由だろう。

今の中国にとってお金がすべの判断基準だ。改革開放以来、金を持つことに国はすべてを注ぎ、国民を豊かにすることだけが共産党にとっての存在意義だった。ある程度お金を持った中国の人たちにとって、お金がすべてであればいいのか。それよりも、お金よりも中華としての尊厳、国や民族のあり方を考えるのか。改革開放政策が始まって32年、多くのアラブの国同様に政治体制が耐用年数を過ぎていると考えるのは僕だけじゃないはずだ。

エジプトの今後がどうなるかは僕にはわからない。アメリカの中東における代弁者、ムバラク大統領がアメリカという国のPrincipleである民主主義と、アメリカから生まれた情報技術によって駆逐されていくのであれば皮肉な話だ。もしかしたら100年後には新たな民主主義の形を生み出したとして、歴史に刻まれることになるのかもしれない。

人ごとっぽくなってしまうのだけど、こうして世界が変わっていく瞬間に立ち会っているのは面白いよね。そして、僕らはfacebookやtwitterを通じてカイロの街角でデモに加わった人たちの本音を知ることができる。すごい世の中になったなあ。

Written by shunsuke

2011年1月29日 at 1:23 AM

ジェクンド地震に見る中国のすごさ

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4月14日に起きた青海の地震、この三週間ほどの間中国各地でさまざまな募金活動が行われていた。とりわけ発生から一週間が経った21日は政府が全国的な「哀悼記念日」とし、全土の公的機関で半旗を掲げ、中国の政府機関、マスコミおよび一部企業のウェブサイトは21日、トップページを「白黒」に切り替えた。
 
中央電視台(CCTV)もすべてのチャンネルで24時間の哀悼番組を放送し、「玉树,我们在一起」の合言葉とともに募金を呼びかけ、ジェクンドの被害者に対して全中華民族がともに助けるとのメッセージを発し続けていた。そして、「5千万元!一億元!」と中国各地の企業がまるでオークションかのように我こそはと募金を申し出ていた。
 
 
この番組のために放送予定だったチャンピオンズリーグ準決勝バルセロナ対インテルの第一レグは放送されず。これにがっかりした人も多かったと思う。僕もその一人。
 
この一連のキャンペーンになんかものすごくしらじらしいと感じてしまったのは僕だけじゃないはずだ。確かに災害の起こった地に手を差し伸べるのは素晴らしい善行だと思う。ただこの国を挙げての行為に僕はものすごく裏を感じてしまう。ジェクンドの地震の被害者たちは中国全土からの復旧支援に感謝するだろう。こういう時の中国政府は本当にしたたかだ。この機会を利用してチベット人も中華民族の一部であること、そして同じ中国の一部であることを効果的に全国民に伝えている。
 
事実、今回の復旧のスピードはものすごかった。報道によると地震発生4日後の17日には大部分で電気が復旧し、一週間で水も出るようになったらしい。実際見たわけではないけれど、ジェクンドが省都から800kmも離れた4,000mに近い山岳地帯であることを考えると尋常でない復旧のスピードだ。ぶっちゃけ日本の救援隊なんて来たって言葉わからないし、高山病になるだろうし邪魔になるだけだよ。来なくて懸命だった。

Written by shunsuke

2010年5月6日 at 1:06 AM