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DAY4: 消えたアラル海

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昨夜晩ごはんを食べている時に突然見つかったモイナックへの同行者M。ヒヴァからモイナックまで往復タクシーチャーターの料金が115USDだったので、二人でシェアしてかつてアラル海の港だった街、モイナックに向かうことにした。

ここで、アラル海について説明しておこうと思う。カザフスタンとウズベキスタンにまたがるアラル海は、世界で4番目に大きな水域面積を持つ湖だった。 異変が起きはじめたのは1970年代初頭のこと。次第に海岸線が遠のき始め、チョウザメなどの漁で栄えた湖岸の街も漁港としての機能を失っていったのだった。

理由はアラル海に注いでいた二つの大河アムダリヤとシルダリヤの流域の乾燥した大地で、大規模な灌漑によって綿花栽培を広げていったこと。雨のほとんど降らない当地で限られた水を農業に大量に使用すれば、アラル海へ注ぎ込む水量は減少していく。ソ連時代に雨の降らない土地に灌漑をめぐらし発達させた綿花栽培は、当地の主要産業となり今でもウズベキスタンは世界第4位の生産国となっているが、その産業と引き換えにどんどんアラル海は縮小していき干上がった湖底から巻き上がった塩が周囲の土地を不毛な大地へと変えていった。

20世紀最大の環境破壊と呼ばれる、このアラル海がなくなってしまった現場をこの目で見る。農林業に対して携わるものとして知っておかなくては、この目で見て理解しておかなくてはいけない。これが今回の旅の大きな目的のひとつだった。

ということで、朝8:30にヒヴァを出発。宿が手配してくれたのは昨日と比べて少しおんぼろなKIAの車と、かなり若いドライバーのドニ。まずは昨日ヌクスから来た道をまた北上していく。40分ほど進むとカラカルパクスタン共和国のゲートが見えてきた。昨日は熟睡していてこんなのがあるなんて気がつかなかった。

ヌクスに向かう途中まではアムダリヤ川の灌漑を使った綿花畑とスイカやメロンの畑が両側に広がる。人家は少ない。畑の区切り区切りには必ず水路が引かれていて、水を供給できるようになっている。

1時間ほど車を走らせると道の両側に広がっていた綿花畑は姿を消し、荒涼とした茶色い大地が広がる。

ヌクスから先で渡ったアムダリヤ川。あれだけ川幅が広く水にあふれていた大河がこれだけの水量しかなくなってしまっている姿が衝撃的だった。そりゃ、アラル海も干上がるわ。

その後、1時間半ほど給油のためにストップ。片言の英語でドニが話してくれたことから想像すると、ここカラカルパクスタンではガスの物流が途絶えていて、ある一部のスタンドしかガスを扱っていない状態らしい。それなので、ガスが置いてあるスタンドには車が集中し、長い時間待たなくてはいけない。「カラカルパクスタン、クレイジー!」と口癖のように叫ぶドニ。ヒヴァっ子からすると、辺境のカラカルパクスタンは、どうやら蔑視の対象になるらしい。そんなガススタンドでのひまつぶしのひとこま。

ヌクスからさらに何もない大地を2時間ほど走り、ヒヴァを出てから6時間ほど経ったころ、ようやくモイナックの街の入り口が見えてきた。ソ連時代には湖岸にたくさんの保養所がならび、海水浴客でにぎやかだったそうだ。魚の絵が描かれた街の看板が、往時をしのばせる。なんだか物悲しいね。

モイナックの街。湖岸の後退とともに漁業が崩壊し、缶詰工場などの雇用もなくなった上、住民には乾いたアラル海から巻き上がる塩で呼吸系の障害が急増していった。実際のモイナックの街は人の往来はあるものの、たしかにうらびれた寂しい雰囲気だった。人が暮らしている音やにおいが伝わってこない街。

街の奥に車を走らせていくと、かつて湖岸だった場所に展望台があった。下を見下ろすと水をたたえていた湖面は砂漠へと変わり、そこに行き場所を失った船がポツンポツンと置かれていた。まさに船の墓場だ。

展望台の上で会った地元のおっちゃんが少し英語を解したので話を聞くことができた。小さい頃はここでよく泳いでいたらしい。「若者はみな街を出て行った。残っているのは老人と子どもだけだ」とつぶやくように話してくれたのが印象的だった。確かに街を走っていた時、子どもの姿が結構目に付いた。もっとゴーストタウンをイメージしていたので、少し意外。

横を見ると、これまでのアラル海の変遷を伝える衛星写真があった。1960年代から70年代のアラル海。この頃はまだ水は豊富でモイナックも漁港として機能していた。僕らが小学校や中学校で習ったのもまさにこの形のアラル海だった。

1980年代になると急速に湖水が減少していく。聞いた話によると、一晩で数十メートルも湖岸が遠ざかった時もあったらしい。この頃になると湖岸の街では塩害が顕著になりはじめ、漁業が壊滅した街を人々は離れていった。モイナックはまだ街として成り立っているだけの人が住んでいるようだけど、湖岸には捨てられた街が数多くある。

そして2009年のようす。かつての湖面の90%以上は干上がり、南に残った「大アラル海」と北に残った「小アラル海」にかろうじて湖水が残っている。小アラル海のほうは堤防をつくり、南への水の流出を防ぐことによって多少生態系が回復しているらしい。

せっかくなので展望台から下に降りて、かつての湖底を歩いてみる。下を見ると無数の貝殻が散乱していた。ただ、貝殻がなければ砂漠としか思えない、風の音以外何も聞こえない世界。

そんな砂地を10分ほど歩いていくと、また別の船が打ち捨てられていた。そして木陰となっている場所に目を凝らすと牛がのんびり佇んでいた。

小一時間ほど、アラル海の船の墓場で佇んで、またヒヴァまでの道のり400kmを車で戻る。教師をしているMの話によると、最近は地図帳にも”アラル海”との言葉は入っていないらしい。”The place used to be known as Aral Sea”と言っていたっけ。まるで1990年台後半のプリンスじゃないか(the Artist Formerly Known As Prince)。

この日は結局ヒヴァに着いたのが夜の9時半。後部座席に乗っているだけでも疲れたけれど、運転したドニはもっと大変だったはず。ドニ、ありがとう。

Written by shunsuke

2011年9月15日 at 10:30 午後

カテゴリー: 2011/08 Uzbekistan

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