Archive for 11月 2006
思い立ったが吉日
自分の好きなこと、気に入ったことにはさっさとやるのだが、嫌いなこと苦手なことはいつも後回しだった。
夏休みの宿題は8月29日くらいから。
いつも準備していればもっとうまくいくのにと、そう後悔することが多かった。
困難にぶつかった時、人間には三種類ある。
すぐにその困難を乗り越えようとする人。
その困難から逃げる人。
そして、立ち止まってしまう人。
きっと、僕は立ち止まるタイプだ。
後回しにすればするほど、面倒くさいことはさらに面倒に、困難な状況はさらに困難になる。
「使えないやつ」そう言われる前に、明日はかったるいことから手を付けよう。
取捨選択
久々にそのことを痛感した。
時間は限られている。何か新しいことを始めたら、他の何かを捨てなければならない。
何かを選択するということは、他の何かを捨てるということ。
取捨選択とはうまくできた言葉だ。
昭和天皇と硫黄島
ロシア人監督アレクサンドル=ソクーロフが日本の、その中でも天皇の神格返上というナイーブな題材を描いた作品。結論をいうと、歴史考察ではなく、昭和天皇ヒロヒトの人間としての人格を描いたわけでもない。神としての苦悩と、神格を捨て去ることの決断にいたったその過程に焦点を絞っている。
すごいなと思ったのは、以下の二点。
①ソクーロフがシチュエーションごとに天皇をうまく描き分けていたこと
②場面を支配する静寂と会話と会話との間が作り出していた、慎み深い日本的な表現の美しさ(最後に桃井かおりが破壊してしまっていたけれど)
独りでいるとき、佐野史郎演じる侍従との会話、統治者としてスーツを着用し、大元帥の役割を演じねばならないときは軍服に着替えている。服を象徴として、神の人格(いや、神だから神格か?)の使い分けを見事に表現していた。 そして「あっそう」。この短い口ぐせに、うかつなことを口にできない天皇としての慎重さ、常日頃から周囲の影響に配慮し自らの主張・感情を抑えていた、日本人として長らく美徳とされていたそんな昭和天皇の自己犠牲が表現されていた。
ただ、以下の二点で物足りなさが残った。
①歴史考証に基づいた情景描写
②昭和天皇の品位と人間としての人柄
マッカーサーと昭和天皇との会談は、その後の日本の政治制度と、昭和天皇自身の戦争責任追及の分岐点となったと記憶している。昭和天皇にとっては、自らが戦犯としていや自決も辞さない覚悟で臨んだ会談であり、その会談を経てマッカーサーは昭和天皇の人柄に魅了され、天皇の戦争責任を問われることはなく象徴としての現在の政体が築かれるにいたった。
しかしながら、その場面でソクーロフが注力していたのはその時の昭和天皇の覚悟や決意、あるいは緊張感、恐怖、不安を表現することではなく、天皇の人格表現であった。極度の緊張がユーモラスな言動を招いたとの解釈もできなくはないが。その人格表現にしても、大好きなタバコをめぐって天皇の人格の使い分けはここでも見事に描かれていたが、マッカーサーが「日本最上の紳士」と評した昭和天皇の品位を描ききったとは思えなかった。まあ、ソクーロフの観点と言ってしまえばそれまでだけど。
それはたぶん僕が日本人であるがゆえの疑問なのだろう。敗戦国の元首の器や日本の歴史を詳細に述べたところで、世界はたいして関心を持ちはしない。世界の関心は、ベールに包まれていた神であった人間の姿やその生活、仕事ぶり、その浮世離れしたところにある。でも、歴史を修めたソクーロフにはもう一歩歴史描写に踏み出してほしかった。
多くの外国人、現代の日本人にとってもかつての天皇制自体がコメディなのかもしれない。全能だからこそ神であるのに本人は何も知らないし何もできない。おまけに、この映画の中で天皇はことあるごとに「神でいるのは何かと不便だ」と愚痴っている。戦争だって軍部が勝手に始めてしまうし、230万人の兵隊さんたちは「天皇陛下万歳!」なんて叫んで死んでいった上に、人間宣言を録音した技師も自殺する。自身曰く 「僕の身体は君たちとほとんど変わらない」人間を周りが「神だ、神だ」と崇めてしまう状況は、確かに喜劇に見えてもおかしくはない。
この映画は日本人には絶対つくることができなかった。それを見られただけでも幸せだと思う。
「太陽」鑑賞後、となりの温泉で一汗流して、レイトショーで「父親たちの星条旗」を観る。感想は、また後日に。
かなわないもの
先週、久々に会った出版社で働く友達の言葉がずしりと心に残った。
年も学年も下だけど、社会人としては先輩。
これまでの自分の道のりを否定するわけではないけど、
やっぱり社会での経験の積み重ねは大きいなあと。
時間は正直だ。
年とか関係なく敵わないもの、できないことを認められる心を持っていたい。
きっとそれって自分が年を、経験を重ねていくにつれて難しくなる。
とりあえずは、目の前のことから片付けよう。
ひとまず多少はストイックに。
オーストラリアの干ばつに思うこと
このような話になると、最近はすぐ「地球温暖化が・・・」なんて説明がされるが、僕はいつもそれを疑問に思う。本当にそうなのか。
確かに、ここ200年余りの人類の急激な文明化、そして経済活動が地球の生態系に与えた影響は大きいと思う。それにあわせるように、大気中の温室効果ガスの濃度は上昇していったわけだ。
ただ地球が誕生して46億年、その間数え切れないほどの地殻や気候の変動があった。その結果、海がつくられ生命が誕生していったわけだ。では今世界中で起こっている変化がどこまで人間の経済活動によるものなのか。最近温暖化関連の話を聞く限り、その視点が欠けている気がする。
安形氏や西田さんの話に間違いがなければ、地球規模での気候変動シミュレーションは盛んに行われているが、今のところの科学的な結論は「人間の経済活動と温室効果ガスの増加には相関関係があり、おそらく現在の気候変動にも何らかの影響を及ぼしているだろう」くらいでしかない。
まあ、それでも関係はあるだろうと僕も思う。いや、関係がないとは思いたくない。だって関係がないとしたら地球規模の気候変動なわけで人間に止められるようなものではないから。そうならば、この変動が人類の滅亡へのプロローグとなってもおかしくはない、かつて恐竜が滅びたように。
昔読んだ手塚治虫の「火の鳥」で、高度に発達したナメクジが人類に似た文明をつくりだしたという話があった。たしかナメクジたちは核兵器に似た兵器によって絶滅するのだが、これを人類へのアンチテーゼと捉えていただろう手塚先生も気候変動は予想できなかったのだろう。恐竜は化石で繁栄の跡を残したが、ナメクジのように骨がなければ化石も残らない。
僕らにとって大切なのは人間が生きていくこと。だが、地球の自律的な作用にせよそうでないにせよ、今起こっている気候変動は人類に影響のある変化に違いはない。
水、食糧、生物資源。気候変動で私たちの生活は一変するだろう。どんな未来が待ち受けているのかわからないが、森林を残していくことという視角から僕はなんらかの一助になりたいと、ここ数年思ってきた。果たして、我々はナメクジになってしまうのか。
ちと話がずれるが、先日日本の森林を憂いていた先生の遺稿が出版された。柳幸広登著『林業立地変動論序説 -農林業の経済地理学-』(日本林業調査会)
遺稿をまとめた人たちには見慣れた名前が並んでいる。みな、多忙な毎日の時間を削って遺稿を本に仕上げたとのこと。仕事を始めて半年あまり、すっかりアカデミックな議論をすることもなくなっていた。ちょっぴり反省。まずはこの前返ってきた論文の修正に手を付けよう。
西安の夕日
2001年7月、僕は西安外国語大学(当時はたしか外語学院)にいた。昆明でHSK(漢語水平考試)の試験が行われず、はるばる西安まで試験を受けにきたのだった。
雨季で肌寒い昆明から灼熱の西安へ。空港に降り立った僕の目の前では、大きな真夏の太陽が地平線に沈もうとし、街では昆明では見たこともなかったセミがうるさいくらいに鳴いていた。そして、学校へ向かうバスの中で、椅子に座っていた僕の前でワキ毛未処理のままタンクトップでつり革をつかんだ女の子がいた。西安外国語大学、その言葉を聞いたときに僕の目の裏に浮かんだのはそんな景色だった。
試験終了後、西安には3日間滞在し、始皇帝の墓・兵馬俑や三蔵法師が経典を納めたという大雁塔を訪れた。1000年の古都はシルクロードへの玄関口、西安には多くのムスリムが住み、彼らの街には食欲をそそる羊のにおいとあの独特の香辛料の香りが漂い、祈りの時間を告げるアザーンが鳴り響いていた。
旅では、訪れた土地それぞれに強烈に残る感触がある。それらは視角や聴覚、時に味覚と結びついて日常の中に埋もれている。ふとした瞬間にそのキーワードに触れた時、引き金がひかれ懐かしい思い出が甦ってくる。僕はそんな瞬間が大好きだ。
目の前のことを処理するのが精一杯の毎日の中で、そんな風に自分が過ごしてきた土地・時間と接点が持てる。西安外国語大学の言葉を聞いたその瞬間、僕の目には西安の夕日とワキ毛の女の子が浮かび、耳にはセミの鳴き声が聞こえていた。
僕にとって、西安と結びついていたのは始皇帝や三蔵法師でもなく、月夜に浮かぶモスクでもなかった。意外と、どこにでもあるどこでも見れるありふれたもの。きっとそんなものなのだろう。実際に目にして感じると、普段目にする機会があるだけにそういったもののほうが違いを感じとり思い出と結びつくのかもしれない。
これまで旅をしてきてよかった。そして、これからも訪れた場所の一つ一つに思い出を残していきたい。心からそう思った。
好奇心の磨耗
父
草津にて
草津の街は何度訪れても飽きることがない。独特の強酸性の湯が湧き出ている湯畑を底にして、すり鉢状に街が広がり、細い道が迷路のように坂道を作り出している。表通りには、昔から続く宿と土産屋が軒を連ね、町のいたるところに無料の公共浴場が旅人を迎えてくれる。湧き出る湯は日本一の量を誇り、ほとんどの場所で源泉かけ流し。江戸時代から湯治で知られていたことが示すように、身体への効能も高い。肌の弱い僕は、以前時間湯をやっていたことがあり、調子の悪い時はここに来て治していた。
夜、湯畑近くのそば屋にて夕食をとる。舞茸のてんぷらにそばビール、三連休の湯畑にはこれまで見たことないくらいの人であふれかえっていた。医者から見離された人たちがよりそって集まっていた山奥の温泉町が、今では日本でも有数の観光地となった。ここに集まる人は変われど、こんこんと湧き出る湯は変わらない。きっと、そのうち「草津に行く」のではなく、「ここに帰る」と感じる日が来るのかもしれないな。
長寿の秘訣
ふたを開けてみると、白いごはんの上に不思議なものが乗っかっている。一日前のてんぷらのような茶色いころも。まるで寺田屋の定食みたいじゃないか。思わず、一瞬またふたを閉じたくなる僕。「まあ、食べてみてよ」同行者にそう促され一口食べてみると、ソースにつけてあるのにころものサクサク感が残っていて、肉をかんだそのところからソースの甘さと肉のうまみが染み出してくる。
店によると、一度食べるとけっこう卵とじカツ丼派からソースカツ丼派になる人が多いとのこと。だけど、僕にとっては、これはこれでおいしいけどもうカツ丼じゃない。やっぱりカツ丼は卵とじだな。ともあれ、うれしい裏切り方をするソースカツ丼と、これを1913年に創案したというヨーロッパ軒に感謝。
ところで福井への道中、そして福井市内で「なぜか長寿」とのキャッチコピーを何度も目にした。その説明によると、なんと福井県は沖縄に次ぐ第二の長寿県らしい。加えて、女性の長い平均寿命が平均値を押し上げている沖縄と違い、福井は男女ともに平均寿命が日本では第二位の長さだという。これは以外だった。
これまで、僕の抱いていた雪国のイメージは、
雪国→寒いから濃い味(塩分たっぷり)、酒もたっぷり→高血圧→三大成人病
というイメージだった。いい意味で持っていた先入観を裏切られ、久しぶりにすがすがしい感じだ。先入観が固定観念に変わるほど恐ろしいものはない。たしかに一日だけの滞在だけだったけど、北海道よりかは味が濃くなく、何より米も魚もおいしい。これだけおいしいものを食べていたら長生きするなと、そう思う。だって僕なら、長生きしてこのおいしいものを長く食べていたいから。きっと、歯の丈夫な人も多いかもしれないな。