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フンザ&カシュガル旅行 Index

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フンザ&カシュガル旅行:2007年7月14日-22日
 
 
■旅程
7/14 TG645 名古屋(NGO)10:30 → バンコク(BKK)14:30
    TG505 バンコク 19:50 → ラホール(LHE)22:30
7/15 ラホール → ラワールピンディ →(車中泊)
7/16 → ギルギット → フンザ
7/17 フンザ
7/18 フンザ
7/19 フンザ
7/20 フンザ → タシュクルガン → カシュガル
7/21 CZ6802 カシュガル(KHG)22:45 → ウルムチ(URC)0:25(+1day)
7/22 CZ6911 ウルムチ 8:10 → 北京(PEK)11:45
        NH160 北京 14:15 → 大阪(KIX)18:15 
■日記 
          土地の恵み
 
出発前

Written by shunsuke

2007年8月16日 at 6:31 午前

カテゴリー: 2007/07 Hunza

DAY8: カシュガルにて

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 カシュガル。なんて旅愁を感じさせる響きなんだろう。名前を聞いただけでポプラ並木と砂漠、そして喜多郎の音楽が流れてきそうな気がする。小学校の時に祖父が持っていたシルクロードのビデオを見て以来、長年憧れていた場所に僕はたどりついた。ちなみに19世紀生まれの祖父は80歳を越えてマチュピチュに行ったつわものである。僕の旅好きは血も影響しているようだ。
 
「カシュガルはすっかり中国化されてしまったよ。ほとんど見るものはない」実はそんな話をフンザで聞いていた。確かに到着後街を歩いても、パキスタンと比べるとどこかそっけない。街中に溢れている漢字を見ると確かに中国に来たことを実感するのだけど、道行く人の八割は高い鼻のウイグル人、そして聞こえる言葉はウイグル語。きっと北京のほうから来たら異国情緒たっぷりなのだろうけど、パキスタンから来ると中国に来たのか、パキスタンの続きなのかイマイチ中途半端な感じだ。
 
旧市街にはこんな石畳の道が続いている。
 

午後、手紙を出しにホテルの代理店に入ると、ウイグル語の単語帳が置いてあった。そうか、中国語(漢語)を使っているから皆そっけないんだ。郷に入れば郷に従え、一番重要なことを僕はすっかり忘れていた。

これまで旅の間、たとえ数日の短い滞在であっても現地の言葉をできるだけ覚え話すことを心がけてきた。それが彼らの育んだ歴史と文化に対するよそ者の僕が払うことのできる最大限の敬意だと、僕はそう感じていたからだ。そんな大事なことを最後の日まで忘れているなんて、なんてもったいないことをしたのだろう。パキスタンでウルドゥー語やブリシャスキー語を数単語でも話せていれば、違った旅になっていたに違いない。

夕方早速単語帳を携えて宿から旧市街へと歩く。街の中心部から一歩入ると、急に漢人の姿が消えシリアで見かけたようなアラブ風の建物が立ち並ぶ。道端にはヒゲもじゃもじゃの男たちがくつろぎ、羊を焼く煙があたりに充満する。そんな街に合うのは漢語ではなく、やっぱりウイグル語だ。

 
単語帳を片手にウイグル語で会話をしようとすると、漢語を話していた時はむすっとしていた人たちの表情が和らいでくる。そして、以外と漢語を解さない人が多いことに気がつく。老人はわかるのだけど、小学生くらいの子どもたちに漢語が通じないことが多いのにはびっくりした。漢語教育を受けているはずなのに、日常会話がウイグル語だからなのか、それとも学校に行っていないだけなのか。逆に雲南や四川で少数言語が消滅しようとしている今、こうしてしっかりと民族の歴史と文化を言葉を通じて受け継いでいるのはうれしくなる。
そうこうしている間に20時間のカシュガル滞在も残り少なくなり、飛行機の時間が近づいてきた。夜10時を過ぎてようやく暗くなり始めた街を離れタクシーで空港へと向かう。

ものごとの終わりはいつも寂しいものだ。だけど今回に限っては旅が終わるという寂寞は感じなかった。国境越えとカシュガルで自分の核となる感情に改めて気がつくことができたこと、そしてその表現方法は間違ってはいなかったこと。きっと満ち足りていたからだろう。夕暮れのポプラ並木の道を自転車で行きかう人の流れを見つめながら僕はそう思い、カシュガルをあとにした。

Written by shunsuke

2007年8月15日 at 12:22 午前

カテゴリー: 2007/07 Hunza

共有すること

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カシュガル行きのバスはギルギットの先で僕を拾ったあと、ポプラが茂る谷を国境の街スストへと向かう。荒涼とした岩山はますます険しくなり、氷河が道に迫る。乗客は僕のほか、みなパキスタン人。男だらけ総勢16名。

12時過ぎにススト着、ここで一時間くらいかけてイミグレを通過していよいよフンジュラーブ峠越えの道に入っていく。ここから中国側のイミグレがあるタシュクルガンまで200kmあまり街はなく、ただひたすら灰色の岩山と、谷沿いに茂る緑、そして青い空だけが広がっていた。

スストから二時間あまりで国境の峠を通過。4730mということだが、チベットからネパールへの峠ほどの雄大さはなかった。冬のヒマラヤがそれほど雄大だったのか、それとも僕の感性が磨耗しただけなのか。

国境を越えて5分くらい行くと、中国側の手荷物検査があった。ここで乗客はみな荷物を持って降り、パキスタン側と同じように中身をすべて開けて係員に見せなくてはならない。解放軍の部隊らしき係員はみなまだ若く、よく聞くと大学院時代に聞きなれた四川訛りが聞こえる。きっとみな各地の農村からやってきたのだろう。

別に中国という国が好きなわけじゃない。これまで行ったことのない国に行く時の高揚感はない。だけど戻ってきたと感じる国は日本を除けばこの国だけだ。三年ぶりの中国。雄大な景色と緑の解放軍服、そしてふるさとを遠く離れて働く彼らの四川訛りを聞いてそんな感情がこみ上げてきた。

国境からさらに一時間半走り、北京時間午後9時に中国側のイミグレ、タシュクルガン着。国境でチェックしたはずなのに、再度荷物を全部出してチェックする。これで今日四回目。当然そこには長蛇の列。もちろん横入りする中国人、それに負けじと僕の背中にピタッとくっついてくる髭もじゃもじゃのパキスタン人。ああ、耐え難い匂いだ。

30分にわたるイミグレを抜けて、中国のスタンプが押されたパスポートを受け取ると、同じバスの乗客とタシュクルガン行きのバスに乗ってきていたツーリストたちがビールを片手に迎えてくれた。イギリス人、ドイツ人、カナダ人、韓国人。そして白いオウム服姿のパキスタン人たちもうれしそうにビールを飲んでいる。「cheers for free beers!!」乾杯を繰り返し無事中国に着いたことを祝いあう。一日に四回も荷物を検査され山道を越えた末に中国にたどりついた乗客たちは、いつの間にか苦難を共にした仲間となっていた。

そこから先のバスは、まるで遠足のようだった。ビール片手にみなが各国の歌を歌い合い、バスの中は歌声と笑い声が響き続ける。お祭り騒ぎは、途中カラクリ湖で数人が降りるまで一時間ほど続いた。単純なのかもしれないけど、結局目的や喜びを共有するってこういうことなんだろう。そしてそういう時は、恥とか見栄とかすべての心のストッパーを取り払ってただ楽しむ心を解放するに限る。隣で歌うムハンマド↓

今日このバスに乗り合わせた以外に何も接点のない僕らが、違いを超えて喜びを共有する。きっとこのうちのほとんどにはもう二度と出会うことはない。そんな仲間たちで愉快な時間を過ごせたことが最高にうれしかった。これこそ旅の醍醐味であり、僕が求めていたものだった。この夜のことはこの先も忘れることはないだろう。そんな最高の時を過ごせた国境越えだった。

Written by shunsuke

2007年8月14日 at 3:38 午前

カテゴリー: 2007/07 Hunza

DAY7: 感謝の気持ち

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4泊したフンザを後にする日がやってきた。前日に買っておいたカシュガル行きのバスの時刻は9時。そのつもりでカリマバードからアーリアバードへと移動すると、目の前を新彊ナンバーをつけたバスが通過する。あれっ?と思いながらバスターミナルへ行くと「バスはもう行っちまったよ、8時って言ったじゃないか」の一言。おいおい、チケットに9時と書いてあるぞ。いつになくスムーズに来ていた旅だけど、やっぱり肝心のところで大波乱が起きた。つくづく詰めが甘い。

さて、どうしたものか。以前だったらここでチケットに9時って書いてあるじゃないか!と主張していたところだが、あいにく僕には時間がない。窓口のおっちゃんも話がわかる男で、チケットを返金してやるからタクシーで国境のスストまで行け、そうすればバスはつかまると力説する。一日一本のバスを逃してしまうと日曜日に帰国できなくなってしまう僕には選択肢はなく、2800ルピーも払ったチケットを返金してもらい横で話を聞いていたおっちゃんを捕まえてスストへ急ぐ。

フンザからスストまでの道のりはおよそ100キロ。フンザ川の峡谷沿いにへばりつくように切り開いたくねくねの山道を自称フンザナンバーワンのタクシーは80キロくらいの猛スピードで飛ばしていく。もちろんタイヤはつるつる、ガードレールはない。確かに運転はうまいんだけど、ちょっと滑ったら谷底行きだ。

そんな僕の心境なんて知らずに彼はやたらと話かけてくる。ウルドゥー語で「パキスタンの音楽聴きたいだろ?」みたいなことを言いながら、よそ見して後部座席に落ちていたパキスタンの国民的歌手のカセットテープを探したりしてくれる。日本で例えると北島三郎かな。フレンドリーなのはうれしいけど、今の僕に必要なのはパキスタンのサブちゃんより自分の命なんだよ、お願いだから運転に集中してくれ。

一時間ほど冷や汗をかいた後、グルミットを過ぎたあたりで早くも目の前に新彊ナンバーのバスが見えてきた。さすがはフンザナンバーワン、予想よりも早くにバスを捉まえ乗り換えることに成功する。タクシーを降りて1500ルピーの言い値を渡そうとすると、スストまで行ってないからと500ルピーを返してきた。これは感謝の気持ちだ、そう言って渡そうとするが受け取らない。

違う土地から来た者として感謝の気持ちをどう表すのか。これって難しいことだ。客という立場から感謝を表現するにはもちろんチップという形は効果的なのかもしれないけど、それは時に客以外の立場で接することを拒否することになる。僕はパキスタンに来て以来、知らず知らずのうちに単なる客としてでしか土地の人と接していなかったのかもしれない。きっとそれは僕が社会人になったことも影響しているのだと思う。気持ちは金じゃない、そんな単純なことを忘れていた自分が恥ずかしかった。フンザであまり写真を撮る気になれなかったのも、もしかしたら僕のその態度のせいなのだろう。

いち旅人として彼と彼の運転に感謝のハグをして、僕は国境越えのバスに乗り込んだ。残り二日余り、よそいきの客としてではなくて、いち旅人として人々と接していこう。

Written by shunsuke

2007年8月10日 at 7:16 午前

カテゴリー: 2007/07 Hunza

土地の恵み

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この旅の間、毎朝必ずチャイを飲んでいた。中国人が真夏の暑い日でもお茶を手放さないように、パキスタンではとにかくチャイだった。朝起きて一杯、食後にも一杯。そして疲れたときは多めに砂糖を入れてもう一杯。さらに話がはずむともう一杯。カシュガルについてからもあの甘いミルクの味と、ほのかなカルダモンの香りがくせになってパキスタン人の店に入ってしまった。ソウルフードという言葉があるけど、チャイはきっとパキスタンのソウルドリンクだ。

よっちゃんに教えてもらったダウドスープは、フンザ名物のヌードルスープだった。シンプルな塩味なんだけど、羊のダシがしっかり出ていて印象深い味だった。もちろん初めて食べたのだけど、なんかどこかで食べたことのあるそんな素朴という言葉がぴったりくる懐かしい味だった。きっと何百年前からフンザの人々に受け継がれてきた味なんだろう。日本の家がぬかみそを受け継いできたように、フンザの家もダウドの味つけを受け継いできているのかな。

杏はパキスタン北部の名物。フンザでも村を歩くと谷のいたるところでオレンジ色の実がなっていた。フンザの子どもには絶好のおやつのようで、手の届く範囲の熟した実は全部子どもたちの餌食になる。少し賢いおばちゃんたちは朝あまり人がいない時間に長い棒を使って木をゆすり、落ちてきた杏の実を乾燥させて売っていた。

ダウドスープを飲んだローカルレストランでその杏たっぷりのアプリコットジュースも飲むことができた。出てきたグラスにはキンキンに冷えた完熟の杏が、100%ジュースというよりも杏をちょこっとつぶしただけの半固体がたっぷり注がれていた。日本の杏より甘く、完熟のいちじくに近い味。あーなんてぜいたくな飲み物なんだ。

土地が変われば土が変わる。土が変われば、味が変わる。きっと僕がパキスタンで味わったものも日本で食べたり飲んだりしたら全然ちがった味になるんだろう。風呂上りにこんなことを書いていたら冷えたアプリコットジュースがたまらなく飲みたくなった。

舌で味わったものを言葉で表現することは難しい。そしてほとんどの場合、主観的な味覚を他人と共有するのは不可能だと思う。だからこそ違う土地を訪れるたびに、その土からしかとれないものを味わうのは僕にとって楽しみであり、最高のぜいたくだ。

チャイ、ダウドスープ、そして杏。これらの味は、カラコルムの雪山と一緒にパキスタンの記憶としてはっきりと僕の記憶に残った。

Written by shunsuke

2007年8月8日 at 10:57 午後

カテゴリー: 2007/07 Hunza

DAY4-6: フンザ、変わっていくものと変わらないもの

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この9日間の旅で、僕はフンザに計4泊することができた。でも、その4日間ほとんど風邪をひいてしまっていた。なんとか日本を出て2日でフンザにたどり着いたものの、やっぱり移動がこたえたようだ。

なかなか歩き回れなかったフンザだったけど、景色は思い描いていた通りのものだった。緑の里に茶色の岩山、そして白い雪山に青い空。この4つの色がどれも際立っていて、ずっと見ていても飽きなかった。人間ってなんてちっぽけなんだろう。この風景を見て感じた気持ちは、初めて上高地に行った時に感じたものに似ていたと思う。人間は自然に敵わないなと、そう切実に感じた。

変わらない景色がある一方で、農業中心だったフンザの人たちの生活は50年前と大きく変わったように見えた。観光が村の大きな産業となり、トレッキングの途中で通った村の中心地区カリマバードの段々畑はほとんど耕されていなかった。かつて外界と切り離されていた村にも電気が通り、YouTubeだって見られるようになった。少し寂しい気がしながらも、観光客である僕は、観光客相手に仕事をしている村人がいるからこうして訪れることができるわけであって、そんな僕が観光客相手の仕事が増えたことで伝統的な生活様式が変わることを嘆くのはやっぱり自己満足な気がした。

フンザ最後の夜にイーグルズネストで出会った30歳くらいのガイドの言葉が印象的だった。

フンザの農業を支えている山から引いている用水は私たちの先祖が、多くの犠牲を払ってつくり守り続けてきたんだ。何十年、何百年かけて農業中心の生活をつくりあげてきた。それなのに、70年代以降道ができて多くの村人が他の場所へ移っていったんだ。今ではパキスタン全土にフンザ人は散らばってるんだよ。それとともにカリマバードのように観光で暮らしていくところも出てきた。僕を見てみろよ。毎日英語ばかり話して外国人相手に仕事をしている。「変わっちまった」そう嘆く人もいる。けど、僕はそれでいいと思う。時代とともにフンザは変わっていかなきゃいけない。そうやって僕らが新しいフンザをつくっていけばいいんだ。

多少時間が経っているので一字一句はっきりと覚えていないけど、たしかそんな内容だったと思う。きっと僕にできることはほとんどないけど、いつかそれが5年後になるのか10年後になるのかまた戻って来て、彼が描いていたフンザを見てみたい、そう思った。

Written by shunsuke

2007年8月6日 at 3:21 午前

カテゴリー: 2007/07 Hunza

DAY3: 26時間のバスの旅

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ラワールピンディから乗ったバスは一路北へ走る。道は途中から山道に入り悪路になっていくが、バスはスピードを落とさずに走り抜けていく。陥没部分を過ぎるその度に、サスペンションなどないオンボロバスはジェットコースターのように飛び跳ねる。最後方に座った僕は壁にもたれようとすると突起物が側頭部にあたり、頭をもたげようとすると眼鏡が鼻の頭に突き刺さる。眠ろうにも眠れない。進むも地獄、戻るも地獄。そんな心境だ。そんな僕の心境を知るすべもなくWe Love Pakistan号は進む。

今日は日曜の夜、毎晩夜中まで机に向かうのも日常、こうしてパキスタンで眠るに眠れずバスに揺られるのもここの日常。ネスカフェのCMかなんかで使っていた「カムチャツカの若者がキリンの夢を見ている時・・・」みたいな詩があったけど、こんな時世界はそういう風に日常のつながりで構成された膨大な線なんだなってことを実感する。それはつまり、僕の日常は世界の一地点でしかないってことを感じる瞬間でもある。

そんなバスの旅も気がつくと周りは明るくなっていた。両側には山が迫り、足元を急流が流れる。川は透き通った水色でもなく、メコンのような茶色でもない、このあたりの土壌がとけこんだ川の水はチャイの色のような不思議な色をしている。あたりを見る限り粘土質でもシルトでもない、かなり硬い地質のようだ。

朝食を食べ、昼食をとりひたすら北へと進むが一向に着く気配がない。距離にすると確か600キロ弱なのだが、険しい道はところどころがけ崩れが起きておりその度に岩を取り除くだけなので、その部分で速度が落ちる。次第に緑が少なくなり山が険しくなった午後18時、出発から23時間後にようやくギルギッドに到着。すぐさまフンザの中心部カリマバード行きの乗り合いタクシーに乗り換えてひたすら進む。

20:00、空がほとんど暗くなっていた頃、窓の外に白いものが見えた。きれいな雲だなと思ったその白いものは万年雪をたたえる名峰ラカポシだった。濃紺の空に静かにくっきりと浮かぶ真っ白なその峰。息を飲む美しさとはまさにこういうことを言うのだろう。

Written by shunsuke

2007年7月30日 at 11:37 午後

カテゴリー: 2007/07 Hunza

DAY2: ラホールからラワールピンディへ

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朝6:30、猛烈なかゆみで目が覚めた。どうやら左の足首をダニにやられたらしい。パキスタンで40ドルも払って泊まったホテルでダニにやられるなんて、まったくついてない。

窓を開けると土の道のところどころに水溜りが浮かんでいる。どうやら昨夜眠りについた後に雨が降ったようだ。部屋の中に吹き込む風が心地よい。通りを歩く人たちは老若男女みな白い薄手のダブダブの服を着ており、いわゆる洋服を着ている人はほとんど見当たらない。ちょうどみなオウムの麻原彰晃が着ていたような服をイメージしてもらえればぴったりだろう。涼しいのだろうけど、パキスタン第二の街でほとんどの人がそういう格好をしていることには以外だった。

そういえば、昨夜日本で言うところの最高裁長官がラホールにやてきたらしく、23時過ぎにもかかわらず横断幕を掲げた人たちが道端に集まり、トラックの荷台に乗りながら何かを叫んでいた。けたたましい音楽にグリーンのライト、そしてそれを取り囲む警官たち。彼らの言葉を解さない僕には歓迎なのかモスク事件のデモなのかはわからなかったが、気味が悪かったのはどうやら皆が同じ白い服を着ていたせいだったのかもしれない。

午前中はオートリキシャに乗り、街の名物ラホールフォート(Lahore Fort)とバードシャヒモスク(Badshahi Mosque)へ出かける。ムガル帝国の5代皇帝シャージャハンが残した庭園、建築物がここラホールには多く残されている。唯一の外国人観光客の僕に近寄ってきた若者ガイドと一緒に砦と庭園、そしてモスクをめぐる。砦は質実剛健、庭園は豪華絢爛、そしてモスクは一度に10万人が集うことができるという。モスクはダマスカス以来だが、ようやくイスラム国家に来たという気分になる。

午後はバスターミナルへ向かい、ラワールピンディ行きのバスを探す。どうやらパキスタンでは主要なバス会社は独自のバスターミナルを持っているらしい。ラホール‐ラワールピンディ間はどうやら「ダイワバス」がいいとのこと。タクシーでターミナルへ行くと、なんと韓国のDaewooのことだった。さすがに「ダイワバス」ではわからない。

13:00、押し合いながら窓口でチケットを買いバスに乗り込むと飛行機のCAのようなサービスがあった。パキスタン=女性は社会進出なし、というイメージだったのですこし驚く。さらに沿道に目をやっていると、女性専用スポーツジムがあった。パキスタンの女性アスリート・・・機内の高校教師といい、イスラム国家を掲げながらしっかり女性は地位を固めているのかも。

ラワールピンディまでの道は高速で5時間余り。沿道に目をやっていると、道端で座っている男性が多い。よく見たらみな用を足しているだけだった。オウム服を着ているとどうやら立ちションができないようだ。そういえば、空港とバスターミナルのトイレの小便器は僕が背伸びをしてやっとたどり着くほど高い位置にとりつけられていた。きっとみな個室に入っていくから、西洋人の高さに合わせたのだろう。いい迷惑だ。

ラワールピンディですぐに北部ギルギッド行きのバスに乗り換える。有力バス会社の大型バスは売り切れで、頼りないバスしか席がないが時間がない僕には選ぶ余地はなく、こんなギラギラバスに乗ることになった。

隣のイスラマバードでゴタゴタやっているのも怖いし、さっさと移動するのが賢明だ。回りはみな髭もじゃもじゃのオウム服の人たちに囲まれて、オンボロバスは19:00に出発。これが長いバス旅の始まりだった。

Written by shunsuke

2007年7月29日 at 11:07 午後

カテゴリー: 2007/07 Hunza

DAY1: バンコク経由ラホール行き

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今回のフンザ行きは、仕事を始めて初めての海外旅行でもあった。忘れないうちに、できる限りその時感じたことを残していこうと思う。昔からいやなことはすぐに忘れる才能はあったが、最近は楽しかったこともすぐに忘れてしまうから。

7月14日、出発の日は大荒れの天気だった。台風4号が接近し、次第に雨も風も強くなっていく。そんな三連休初日の土曜日、空港への道中はたくさんの人であふれていた。北海道へ向かうらしき若者たち、韓国へ団体旅行のおばちゃん。そんな中僕は使い古したバックパックに昆明で買ったトレッキングシューズ姿、明らかに浮いていた。学生の頃なら日本ではちょっと汚い(と見られるような)格好をしていても気にならなかったけど、なんだかバックパッカー姿で電車に乗って空港にいるのが気になった。年をとったのかな?それとも社会になじんできた証拠なのかもしれない。

出発一時間前にセントレアに着き無事にチェックインする。今回初めてのマイレージ特典フライトだったのだけど、どうやら特典旅行分はマイルがたまらないらしい。「本当にすみません」マイレージカードを差し出した僕に申し訳なさそうに謝るカウンターのお姉さん。そこまで申し訳なさそうに謝られると、まるで僕が悪いことをした気分になってしまった。

台風の風をもろともせず、飛行機は無事に旅立った。機内ではフンザを題材にした「草原の椅子」を読む。フンザは題材というよりも脇役といったところ。いつも思うのだが、宮本輝は旅をつまみにして人間の弱い部分を繊細に表現するのが実にうまい。

今回のバンコクは2002年以来5年ぶりだった。田んぼの中に点在するため池と、オレンジの屋根の家々、そして雨季の大地に果てしなく広がる深い緑。着陸間際に雲を抜けて見えてきたそんな懐かしい光景で、僕の心が旅モードに切り替わった。そういえば、2000年の4月に一年半の旅に出かけたときもこの光景を眺めて旅が始まった。あれから僕は7つ歳を重ね、おなかまわりも多少肉がついた。月日っていうのはこういう時に実感する。

5時間のトランジットの間、タクシーに乗りカタコトの英語とカタコトのタイ語で30分かけて空港近くのマッサージ屋を見つけてもらう。こういう時、なまじ英語がわからない方が楽だ。拙いタイ語でなんとか自分の気持ちを伝えることができる。一時間半のマッサージの後は、屋台で夕食。久しぶりに鶏肉の蒸しごはん、カオマンガイを食べる。前にタイにいた時よく食べた味と変わらない、そして20バーツという値段がまた懐かしい。

 

正味2時間くらいのタイだったけど、マッサージに料理にとすっかりタイを満喫した。この国の素晴らしいところは、これだけ開けた観光立国で昔から世界中から観光客が訪れているのに、来る者が不快に思うことが少ないことだ。急に観光客が増えた土地が観光地ずれしてしまうのと違って、きっと昔から観光客と接しているから来る側も迎える側も心地よい関係を築くのが上手なのだろう。その一番大きな要因は、きっとこの国の人たちの満面の笑顔に違いない。

タイを満喫した僕はラホールへと旅立つ。八割が日本人観光客だった先ほどの便とは違い、9割は一目でわかるパキスタン人だ。観光客らしき人は僕と団体旅行の韓国人のみ。モスク事件で危機感が高まっている中、敢えて行く人はそんなにいないのだろう。

機内で隣に座ったのは、上品な感じのパキスタン人の女性だった。大学院の研究室にパキスタン人の男性に嫁いだ日本人女性はいたが、パキスタン人の女性と話すのは初めてかもしれない。聞けば、カラチで数学を教えている高校の教師で、家族とプーケットへバカンスに行った帰りだという。「カラチへ戻る前に故郷のラホールに寄るの」何で一人でラホールへ、との僕の問いにそう微笑んで答えた彼女の英語は訛りがほとんどなく、そしてスカーフをまとわない笑顔はみとれるほど美しかった。

現地時間22時30分、ようやくラホールに到着。イミグレを過ぎ外に出た瞬間、僕の眼鏡が真っ白に曇った。まるで蒸し風呂、いやサウナか。暑いとは聞いていたけれどこれまでとは思わなかった。どれでもいいからタクシーを捕まえてホテルへ向かいベッドに倒れこむ。時差の関係で計26時間、長い一日だった。ホテルの外気計を見ると、23時30分現在43℃。28年の人生史上最も暑い夜だった。

Written by shunsuke

2007年7月29日 at 4:20 午後

カテゴリー: 2007/07 Hunza

出発前夜

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先週末、旅に向けて新しい手帳を買った。その名もTraveler’s note.

旅は、思考する。
旅は、発見する。
旅は、想像力を解放する。
旅は、自分の内面をさらけだす。
そのすべてを受け入れ、
ここに書き留めよ。

このコピーに思わずやられた。うーん、まさにそのとおりだよな。

一昨日はフンザ行きに先立ち、本を二冊購入。藩王国時代のフンザに調査を行った歯科医師の冒険記、Allen E.Banik and Taylor, "Hunza Land"とフンザがモデルとなったといわれている宮本輝『草原の椅子』。両方とも持っていって飛行機の中で、そしてフンザでゆっくり読みたい。

それでは、Hunza Landから冒頭の一節を。

ここに紹介するフンザという国は、最近まで他の世界とまったく孤立していた、ヒマラヤ山中の不思議な小国である。フンザ国―人口わずかに2万5千人、中国と西パキスタンと国の境を接し、ソビエト・ロシアからわずか18マイルの距離にあり、1万フィートから1万9千フィートの聳えに立つ連峰に囲まれた、肥沃な谷間の小国。しかも過去2千年にわたってこの珍しい国民はほとんど完全といっていいくらい、外部の世界と縁を切って生活を続けてきたのだ。

今ではこんな世界へわずか9日の休みで行けるようになった。それが果たして肥沃な谷間の小国をどう変えたのか。予定では16日にフンザin。モスク立てこもり事件、そして台風となんか悪いニュースが続いているけど、7時間後いよいよ出発です。

Written by shunsuke

2007年7月14日 at 2:03 午前

カテゴリー: 2007/07 Hunza