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Archive for 4月 2011

20億年前の大地ってどんなところなんだろう?

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今年のゴールデンウィーク、どこに行こうかなあと考えていた2月初旬のこと、友人から「今年はAir Canadaがものすごく安いらしいよ!」との話を聞いた。どれどれと思ってホームページを見てみたらほんとに安い。税金込みで15万円以下から中南米往復のチケットがあったのでその時点で中南米に行くことを決めた。

中南米、どこにいこう。ペルー、ボリビアは行ったしアルゼンチンかなあ。とエアカナダの就航都市を眺めていたらカラカスという文字が目に入った。そうだ!ギニア高地だ。テーブルマウンテンに行ってこよう。(写真お借りします)

ここにあるロライマ山(Mt.Roraima)に5泊6日で登るトレッキングツアーがあるのだけど、それには日数が足りなくて断念。その代わりに世界一の高さの滝、エンジェルフォール(Salto Ángel)に行くことにした。世界一ですよ、世界一。

ところでギアナ高地、テーブルマウンテンってどんなとこ?と聞かれそうなので説明しておくと、こんなところです。

ギアナ高地は、南アメリカの北部、オリノコ川・アマゾン川・ネグロ川の3つの川に囲まれた地域にある「高地帯」。(Wikipedia) 国としては、コロンビア、ベネズエラ、ガイアナ、スリナム、フランス領ギアナ、ブラジルの6カ国と地域にまたがっている。シャーロック・ホームズの作者として有名なサー・アーサー・コナン・ドイルが1812年に自身で登頂した体験を元に書いた “The Lost World” (失われた世界) の舞台となり、これをきっかけに世界に知られるようになったと言われている。「ギアナ高地」としての総面積は日本の1.5倍にあたる広さだとか。

ギアナ高地には、”Tepuy” (テプイ) と言われる、「周りは断崖絶壁なんだけど頂上はテーブルのように平ら」という、英語でテーブル・マウンテンとして有名な山が100以上もある。今回行こうとしている世界最大落差978mの滝エンジェルフォールは、このテプイの一つ、Auyan Tepuy(アウヤン・テプイ) から流れ落ちる滝。このアウヤン・テプイは頂上の平べったいところの面積が一番大きなテプイでもあり、その面積はなんと東京23区より広い。

ギアナ高地の地質は、今から約20億年前のものといわれている。今からおよそ2億5000年前に大陸分裂が始まり、しだいに世界は今のような大陸の並び方に変化していったが、その時このギアナ高地は大陸分裂の「回転軸」の位置にあったため、そのままの位置でとどまり、今に至るというのだ。外界との隔たりとなっている断崖絶壁は、ロライマ山では約1000mもあり、従って上と下ではほとんど生物の行き来がなく、テプイ頂上での生態系は外界からの影響を受けることなく、独自に進化を遂げた。確認されているだけで4000種の植物があって、そのうち75%は、ギアナ高地でしか見られない種らしい。

せっかくなので、可能だったら20億年前の大地が残るテプイの頂上に立ちたい。カナイマからヘリコプターで行けるらしいので、現地で試してこよう。日程はこんな感じです。

5/1 AC2 東京 17:45 トロント 16:35
  AC76 トロント 19:05 カラカス 23:50
5/2 カラカスからシウダーボリバル(Ciudad Bolivar)へ移動
5/3 エンジェルフォールツアー
5/4 エンジェルフォールツアー
5/5 エンジェルフォールツアー
5/6 アウヤンテプイの頂上に降り立つ
5/7 未定(マルガリータ島でダイビング?)
5/8 未定
5/9 未定
5/10 AC75 カラカス 0:50 トロント 6:45
AC1 トロント 14:05 東京15:50(+1day)

ロライマトレッキングをするつもりで5/11に帰国にしたので、丸三日間日程に余裕ができた。ベネズエラ国内にするかコロンビアにでも行ってみるか。丸々三日間会社休んで行ってくるので、思いっきり楽しんできます。

Written by shunsuke

2011年4月29日 at 11:14 PM

カテゴリー: 2011/05 Venezuela

平遥訪問記その2:700年の歴史が息づく街ですばらしい宿に出会った

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平遥古城めぐりもいよいよ終盤、日も傾きかけてくる中夕暮れを城壁の上から眺めるために古城の北にある拱極門に向かう。すると、こんなシュールな刺繍を発見。ほっぺたが赤いのがかわいいね。

メインストリートを北に向かって歩いていくと、町並みの向こうに目指す門が見えてきた。

門から城壁の上に登るところにもしっかりとゲートがあって、共通のチケットをチェックしている。つまりただ城壁を歩くだけでも150元を払わなきゃいけないってシステムなんだな。日本のどこに入場料だけで2000円とるような史跡があるだろうか。それでも中国人観光客は(文句は言っていると思うけど)チケットを買って観光を楽しむ。物価を考えると中国人の観光客は相当なバリューを旅行に対して認めていることなのかもしれない。日本のインバウンドももっとお金もらっていいと思うよ。京都とか町に入るだけで1,500円とかね。そんなことを考えている僕の脇を通り過ぎるおばちゃん。そうか、牛筋ひき肉なのか。

ぶーぶー文句は言ったものの、城壁の上からの景色はすばらしかった。この街がつくりものの街でなくて、700年前から人々の暮らしが根付いてきた街がそのまま残っているってことを実感する。

北にある拱極門から西に位置する鳳儀門までちょうど正方形の古城の4分の1ほどを歩いてみることにする。古城の一辺が1.5kmなのでちょうどそのくらいの距離。少し離れて拱極門と町並みを振り返ると、夕日を浴びていてきれいだった。

しばらく歩いていくと一見同じような家々もひとつひとつやブロックごとに特徴があるのがわかる。屋根の形がちがったり、壁の模様が違ったり。そしてどの路地も生活の音が響いていた。

キュートな扉。扉の魚、チュニジアの家もこんな模様の扉があったっけ。考えてみたらこことチュニジアも陸続き。もしかしたらウマイヤ朝と唐の時代に、オスマントルコと清の時代に同じものが伝わったのかもしれない。歴史のロマン。

ちょうど古城の隅っこに到着。ここから眺めた景色が圧巻。本当に古城の中は昔の家だらけなんだなあ。

30分ほどかけて古城の西にある鳳儀門に到着。ここからの眺めが実に情緒があった。夕日を浴びた石造りの町並み、店の前にはためく屋号、街をいきかう人たち。やさしい陽の光が似合うなあ。

何百年か前にここから夕暮れの街を眺めた人も、今こうして僕が眺めているのと同じ景色を眺めていたんだろうな。そう思うとゾクゾクする。しばらく夕日と古城を眺めてそんなことを考えていた。

日も暮れてきたので城壁を下りる。するとまたもやいいにおいが漂ってきて、思わず焼餅を購入。だけど今度の焼餅は具が酸味の利いたザーサイのような漬物で味はイマイチだった。焼き目がおいしそうだっただけに残念!

大きな町ではとっつきにくい印象を持つ中国人でも、田舎に行けば全然違う。こちらが心を開けばその瞬間に会話が弾み始める。この国の日常の生活の中で、普通の人々から感じるエネルギーが僕は好きだ。

たっぷり間食をし大満足で宿に戻る。今回泊まったのは一得客栈(Yide Hotel)。280年前に建てられた候王賓という銀行家の旧家を改装した、古い四合院のホテル。街のメインストリートから少し南に行った静かな場所にある。

もともと友人と二人で350元のスタンダードルームを二部屋予約したのだけど、グレードアップしてくれていてスウィートになっていた。4月のこの時期、昼間は20度くらいで暖かいのだけど、夜は5度以下まで冷え込む。それでも部屋はオンドルつきで暖かい。天井の形を見てもらえばわかるのだけど、造りは黄土高原の伝統建築ヤオトンと同じだ。考えてみたらここも黄土高原の南東部だものね。

このヤオトン造り、音響効果がすごい。外で鳴く鳥のさえずりが、まるで耳のそばで鳴いているかのように聞こえる。ほんと不思議な建物だ。そして、二つの部屋をつなぐリビングにはこんな愛らしい茶器が置かれていた。細かいところまで気配りが行き届いていてうれしいよね。

夜はホテルのレストランで友人とホテルの女性オーナーと三人で地元特産の紹興酒を片手にゆっくり話す。地元出身のオーナーは今年40歳、凛とした雰囲気が印象的な女性だ。99年頃に古城に残る伝統的な家屋を利用したホテルを開きたい!と心に決め、公務員をしている旦那に仕事は任せて2年間かけてこの築280年の旧家を探し当て、改装し2001年にこのホテルをオープンさせた。「昔の街がそのまま残るこの街の雰囲気、私たちが受け継いできた伝統のすばらしさを多くの人に伝えたかったの」そう語る彼女はとても誇らしげだった。今では平遥でも一、二を争う人気のホテルで宿泊客の9割は欧米人、宿のスタッフは全員英語を話し季節を問わず宿泊客でにぎわっている。週末なのにもかかわらず、ギリギリで予約がとれた僕はラッキーだった。

この街もこの宿も最高です。これまで訪れた中国の街の中でも一番気に入ってしまったかもしれない。日本からでも二泊三日で行くことができるので、ぜひ平遥へ行ってみてください。

一得客栈(Yide Hotel)
http://www.yide-hotel.com/index.asp

Written by shunsuke

2011年4月27日 at 1:17 AM

平遥訪問記その1:いにしえの金融センター平遥

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「昔の城壁、町並みが中国で一番ありのままに残っているんだよ。あの街は僕ら山西人の誇りなんだ」。北京にいた2003年の時に、山西省の友人からそう話を聞いてずっと気になっていた場所、平遥に先週末行ってきた。

山西省の省都太原から南に100kmほど行ったところ。飛行機で太原まで行き、そこから車で2時間ほどいった場所に平遥の街はある。まずは空港近くの農家飯に連れて行かれ、腹ごしらえ。「うちの鶏は新鮮でおススメよ!」店のおばちゃんがそうすすめてくれた土鶏飯、甘めのソースで炒めた鶏をもち米の上にのせて食べる。中華っぽくない料理だったけど、もち米とソースの相性が抜群でやみつきになる味だ。

そしてもう一品のおすすめ、コウリャンの麺。柔らかい麺の上にあんをかけて食べると、コウリャンの粉っぽい風味とあんが混ぜ合わさってまったく新しい味になる。名古屋住民にはあんかけスパをおいしくした感じと説明すればわかりやすいかな。写真をみるとそばに見えるけれど、味はもっと粉っぽい。粉っぽいからこそあんかけがよく合うんだろうね。

お店の看板娘、19歳。日本人と話したのは初めてだったらしく質問攻めにあった。どこに住んでいるの?地震大丈夫だったの?資生堂の化粧品ほしいんだけど、持ってない?ほっぺたの赤さが北の人だ。

太原から平遥までは、畑とポプラの並木が広がる典型的な華北の景色。南と違って空気が乾いているのが、肌を通して伝わってくる。肌から水気が奪われていくような、そんな感じ。途中何度か川を見たのだけれど、どの川にも水が流れていなかったのが気になった。

午後3時前に平遥に到着。すると、こんな光景が出迎えてくれた。こういうのを見ると中国の田舎に来たなあという実感が沸いてくる。

平遥の街は周囲6kmの古城を中心に、その周りに新しい街が広がっている。古城に近づくと堅牢な石造りの門が見えてきた。

ここで改めて平遥の説明を。Wikipediaによる説明を要約するとこんな場所なんです。

平遥は清代末期までは山西商人の拠点であり、中国の金融中心地であった場所。中国では長い歴史の中で戦火にあったり、改築されて昔の都市がそのまま残っていることは少ないが、この平遥古城には14世紀の明代始めに造営された町がそのまま残っている。「亀城」と呼ばれた城内の街路は「土」の字につくられていて、建物は八卦の方位にのっとって配置されている。明代から清代にかけての中国の典型的な城郭、街路の配置、商店や住居などの古建築の保存状態はよく、中国でも最も整っているもののひとつらしい。

清代末期、平遥には大きな票号(近代以前の金融機関)が二十数家あり、中国全土の票号の半分以上が集まる金融の中心地であった。これらの票号は各地に支店を置いて金融業を営んだが、なかでも19世紀初頭に「匯通天下」として19世紀後半に名をはせた中国最大の票号「日昇昌」は有名である。しかしこれらの票号は辛亥革命で清が倒れると債権を回収できず没落していった。これらの票号の建物は現在でも残り観光地となっている。

周りを山に囲まれているわけでないこの平遥の古城が現代に残されたのは、金融の中心地で戦渦に巻き込まれるとみんなが困ったからなんだと、僕はこの説明を読みながらそう感じていた。実際に街でも宿のおねえさんをはじめとする数人の地元人に聞いてみたけど、みんな「たぶんそうだろうねー」とは言っていたからたぶんそうなんだと思う。だれもそんなことはわからないんだけどね。だけど、なぜこの場所が金融の中心地として発達したんだろう?その肝心なことはわからずじまいだった。

女真族の清王朝において騎馬民族と農耕民族をつなぐ中継地点にあったから?今回はガイドをつけてゆっくり話を聞く時間がなかったので、今度また次の機会があったら豆炭のにおいが漂う街を歩きながらじっくり聞いてみたい。

さて、話を平遥の街に戻してみると、他の中国の古城観光地同様、メインストリートにはレストランやおみやげ物やがずらりと並んでいた。そしてこれも他の観光地同様、ここを訪れる観光客の9割以上は中国人。だけど他の古城と違うのは、門構えは観光地っぽくなっているものの建物や道はほとんどが昔から残されてきた建物が使われていること。そして、一歩路地を入るとそこに地元の人の生活の場になっているということ。つぼを売り買いする地元のおっちゃんと、街をねる観光客が対照的。

メインストリートを歩いていると、一軒のお店に目がいった。「平遥名物生姜キャンディ」。生姜にはちみつをまぜてキャンディにしていて、とっても身体によさそう。風邪を引きやすい僕にはちょうどいい。杏味とかもあって、おみやげに大量購入。店の前でお兄ちゃんが飴つくりの実演をやっていたのだけど、茶色の原料が空気を入れながら練っていくと黄金色に変わっていくのがとっても不思議だった。

この平遥。古城の中に入るのはタダだけど、街の名所や城壁に登るには150元の共通観光券を買わなくてはならない。せっかくだからということで150元を払ってチケットを買い、まずは19世紀最大の銀行、日昇昌に行ってみる。それにしても150元は高いよね。この観光業のインフレをさっきの生姜キャンディに還元すべきだよ。

日昇昌の中は昔の銀行窓口のようすとかが再現されていて雰囲気があった。何より建物の梁に直径が40cmくらいある太い丸太がふんだんに使われているのが迫力があった。ニセモノが多い中国の古城だけど、平遥の建物はホンモノだよ。当時でもここの付近はそんな丸太なんてなかったはず。まだ森が残っていた遠い南のほうから運んでくるだけの政治力と財力があったってことなんだろうな。

日昇昌を出ると、道のそばからおいしい香りが漂ってきたので思わず足を止める。中国全土でいろいろな焼餅があるけど、僕はこの焼餅が大好物。ここのは黒ゴマを入れた甘めのあんで、焼きたてがとてもおいしかった。一個1元っていう手軽さも最高だよね。

焼餅を売っていたおばちゃん。朝7時くらいから19時くらいまで、1日300個くらい売れる日もあるのよ。1日300個ってことは2分に1個ってことか。それでも粗利300元だもんな。きっと原価が1個0.2元くらいなんだろう・・・

この後、夕暮れの古城を上から眺めに城壁に登ります。

その2に続く。

Written by shunsuke

2011年4月25日 at 2:18 AM

カテゴリー: 旅行

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感傷と追憶のはざまで感じたこと

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昨夜、ふと南寧の街並みが夢に出てきた。やしの木が並んだ街の目抜きどおり。明け方まで若者でにぎわう屋台外。ビール片手に焼肉を食べながら、ツァイマー(華南地方のじゃんけんのような遊び)をする酔っ払いたち。

目が覚めた瞬間初めてそれが夢だったこと気がついた。不思議なものだ。あの熱気の真っ只中にいる街にいた頃は、一人そこで暮らしていくことが寂しくて仕方なかった。でも日本に帰ってきた今それを夢に見るくらいに懐かしがっている自分がいる。今日で日本に戻ってきてからちょうど5ヶ月。今となっては、南寧での1年4ヶ月はまるで夢の中にいたかのような感覚を覚える。

毎日通ったルオスーフェン屋の主人とおかみさんは元気かなあ?苦楽をともにした仕事仲間たちはしっかり仕事をやってるのかな?大学で一緒に野球をした仲間たちは就職できただろうか?みなこの5ヶ月間、それぞれの時間を過ごし、それぞれの道を歩いているんだろう。

いつか彼らに再会した時、お互い過ごした時間を誇りに思えるよう、僕も一歩一歩自分の道を歩いていこう。

Written by shunsuke

2011年4月22日 at 12:34 AM

震災後一ヶ月の率直な気持ち

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地震から一ヶ月が過ぎた。まだまだ収束の気配すら見えない原発事故。率直なところ放射能は怖いです。きっと政府が発表している数字よりも風に乗ってヒトデのようにいろいろなところに散らばっているんだと思う。だからできるだけ外出の時はマスクをしている。メガネくもるから最近はあんまりしてないけど。

一方で、今回ほど自分が日本人であることを強く意識した時はなかった。マレーシアでは、現地の友人から「こちらに逃げてきたほうがいい、いつでも住むところはあるよ」と声をかけられた。中国の友人からは「なんで早く東京から逃げないの!」とたくさんしかられた。彼らの気持ちはよくわかる。僕が彼らの立場だったら同じことを言っていたと思う。

本音を言えば怖い。今すぐ逃げ出したい。だって、もし爆発したら東京にいる人はジ・エンドでしょ。東京にいる人は心のそこではそう思っている人も多いんじゃないかなと思う。臆病者の僕は何度も本気で会社辞めて逃げ出そうと考えた。

だけど、ここ日本には家族も友もいる。そしてなによりどんなに長く他の国と関わろうと、どれほど深く他の国の言葉や文化を理解しても僕のアイデンティティはここ日本にどっしりと根付いている。それを痛いほど感じた一ヶ月だった。

自分はどこでも生きていける人間だと思っていたけど、どこでも生きていけることと、アイデンティティが根付いた場所を大切に思う気持ちはまったく別物なんだよね。中国でもアフリカでも生きていくことはできると思うけど、仮に日本という場所がなくなってしまったら僕は生きていくことはとても難しくなる気がする。

僕のじいちゃんのじいちゃんたちが明治維新を成功させて、じいちゃんや父親の世代が戦後の日本をつくりあげて、そのおかげで僕らは今ここにいる。そして、僕らは祖先から託されてきた日本人としてのバトンをしっかり受け継いでいかなくてはいけないんだ。僕らの子どもや孫やそのまたずっと先の代にも日本という国が世界に誇れる場所であってほしい。

今回の一連の地震と原発の事故を経験して、そう痛切に願うようになった。

Written by shunsuke

2011年4月17日 at 11:28 PM

DAY8:埃にまみれたタンザニア、快適なケニア

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ナイロビまでのバスに乗るため、この日は朝5時に起きる。昨夜は12時過ぎまで騒いでいたので、さすがに起きるのがきつい。おまけにひどい二日酔い・・・楽しい夜のあとには必ずそのツケが来るものだ。

予約していたriverside社のピックアップは時間通りにホテルにやってきた。アフリカ、とくにブラックアフリカは時間にいい加減というイメージがあったけど、モシに着いたその日のキリマンジャロ空港でのピックアップをのぞけば、今回の旅行ではどれも時間に正確だった。このシャトルも40USDでホテルまで迎えに来てくれて、そこからナイロビの空港までダイレクトに送ってくれるのはとても便利。

ホテルを時間通り朝6時に出発。これでキリマンジャロともお別れだ。最後に見た朝焼けを浴びた姿も美しかったなあ。キリマンジャロ、楽しい時間をありがとう!

僕らをホテルでピックアップした車はアルーシャ(Arusha)の街のターミナルに向かい、そこでマイクロバスに乗り換える。乗り換えの時間が少しあったので道を歩くと、街路樹が鮮やかな花を咲かせていた。ナイロビでもこの紫色の花を見たけれど、すごく印象的な色だった。こんな街路樹、アジアにはないよね。

アルーシャからケニアの国境までは一本道をまっすぐ北上して一時間ちょっと。 道の両側には乾いたサバンナが広がっていて、時々そこに住んでいるマサイたちにすれ違う。

道はところどころ未舗装で、僕らの乗ったマイクロバスは乾いた埃を巻き上げながら国境へと向かっていく。対向車が来るとあたり一面真っ白になってしまうのだけど、ドライバーは速度を落とすことなく進んでいく。これ、ちょっと怖い。

車が巻き上げる埃で道の両側のサバンナは真っ白。ちょっと不思議な風景だ。

国境を超えると、ケニア側に同じriverside社のバスが数台待っていて、ナイロビ市内と空港行きに乗客は分かれて乗る。とっても便利。ケニア側の道はタンザニアとは違ってすべて舗装されていて快適なドライブ。こんなところはケニアとタンザニアの国力の差が出ているなあ。バスはトラブルもなく順調に14時にはナイロビ空港に到着。オーバーヒートとかパンクとか、いろいろ覚悟していたんだけどあっけないくらいスムーズだった。

ナイロビの空港に無料wifiがあったので、たまっていた仕事のメールを処理する。中国は休みだけど、日本は通常通り仕事をやっているので容赦なくメールがたまっていた。帰りももちろんエチオピア航空。相変わらず機内放送のアムハラ語アナウンスと、セーフティガイドのCGがとてもシュールで気になって思わず写真撮っちゃった。エチオピアの母語アムハラ語、小人が踊っているようにしか見ないのは僕だけだろうか。

この後はナイロビからアジスアベバで北京行きに乗り換えて、一路中国に戻り結婚式に参加です。

Written by shunsuke

2011年4月17日 at 10:49 PM

カテゴリー: 2010/10 Kilimanjaro

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DAY7: 解放された夜

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Climbing day 6: Mweka Camp(3,100m) – Mweka Gate(1,800m) 10km

6日間のキリマンジャロ登山も今日が最終日。昨夜は初日以来4日ぶりにまともに眠ることができた。やっぱり高度が下がってきたからなんだろう。症状は重くなかったけど、寝られなかったってことは僕も高山病にかかっていたんだろう。

この日は半日かけてゆっくりとゲートまで下っていく。シャワーを浴びることができるのはうれしいけれど、この楽しかった時間が終わってしまうのはとっても寂しい。こうしてスタッフが用意してくれた豪華な朝ごはんを食べることができるのも今日が最後。スープから始まってソーセージにパンにフルーツ。ポーターが6日分を持ってあがってくれて、しっかり毎日こんな朝ごはんが出てくる。それって考えてみたらすごいことだよ。

食事の前にはこうしてボウルにお湯を入れてテントまで持ってきてくれる。この水もポーターが運んできてくれているもの。洗い終わった水はポータブル水洗トイレの水として使われて、しっかりリサイクルされる。このお湯で顔を洗うのも今日が最後なんだな。

最後の記念にLarahaはじめポーター、コックたちと記念写真。僕の荷物を持ちながら僕より後にテントを担ぎ、僕より先に次のキャンプについてテントを建ててくれていたスタッフ。彼らがいなかったらキリマンジャロ登頂は難しかっただろうな。改めてありがとう!

この日はゆっくりと9時に出発。昨日の頂上アタックの疲れがものすごく残っていてひどい筋肉痛。体の節々がギシギシ音を立てている感じだ。そんな身体を強引に動かして、1時間ほど下っていくとまた熱帯雨林の世界に戻ってきた。木々の木陰の道に入ったとたんに乾いていた空気が湿り気を帯びてくる。森は命の源なんだな。

昨日までの砂と岩の世界からくるとすべてのものが美しく、いとおしく見える。登りの時に1.5割増し。特に花の色がきれいだ。こんなにあざやかだったっけ?

とってもでかくて太い木があったので、KarinとLarahaの三人で記念撮影。幹に空洞があって、まるでトトロが中に住んでいそうな大木だった。

出発して2時間半ほどすると、下り坂が平らになってきた。足元を見るとなにか黒いものが動いてる。近づいて見るとアリの大群。日本で見るアリの二倍くらいの大きさのアリが長い列をなして道を横断している。中には踏み潰されたのか死んでいるアリもたくさんいた。だけどアリたちは屍を乗り越えて黙々と前進していく。とても不思議な光景だった。

足下にはアリ、そして頭上を見上げると猿。Larahaによるとブルーモンキーとのこと。結構人に慣れているのか、近くまで近づいてきた。日本では猿って見慣れているけれど、実はヨーロッパにはほとんど生息していない。だから欧州人はみな興奮気味にシャッターを切っていた。

4時間ほど歩くといよいよゴールが見えてきた。ゴールにある広場が近づくにつれ、6日間歩きとおすことができた達成感と、この楽しかった時間が終わってしまう一抹の寂しさが入り混じって複雑な気持ちになっていた。

この6日間、ずっと行動をともにしたLaraha。Moshi近辺の村の8人兄弟に育って、人一倍頑張りやな彼。ガイドの仕方をめぐって最初の二日間はずっと議論しっぱなしだったけど、なかば八つ当たりのような僕の質問や意見にもひとつひとつしっかり答えてくれた。年下だけどアニキのようなそんなLaraha、6日間改めてありがとう。

ゴールのMweka Gateでは昨日Markusたちと先に下りたJohnが待っていて、僕らを迎えてくれた。その後ZARAのバンに乗りホテルに戻って6日ぶりのシャワーを浴び、Marcoと一緒にMoshiの街に繰り出してドライバーおすすめのKilimanjaro Coffee Loungeでカフェタイム。

ドイツの元軍人で10年の軍役を終えた後、今はDanzigにある大学院で学生をやっているMarco。この旅の中でまるで昔からの親友のように仲良くなった。彼はベトナム人の両親を持つ彼女がいるのだけど、キリマンジャロに誘っても着てくれなかったらしい。ドイツにベトナム人の移民がいるのが以外だったけど、旧東独にはけっこういるんだって。知らなかったなーそれにしても頂上アタックして、その日にMoshiまで戻ってきたアンタはすごいよ。

夜は5人のTeam Kilimanjaroで最後のパーティ。これまで登山中は飲めなかったビールをたらふく飲んで、お互いの仕事の話や人生の話に夜中まで盛り上がった。ひと仕事をやりとげた、そんな解放感を感じた夜だった。

ニューヨークで会社経営をしているLise、高山病の症状が出ながらも翌日のプラニングの時など常にパーティのベストを尽くせるようにリーダーシップをとってくれていた。2児の母ながら会社を経営して友達とキリマンジャロまで登りきちゃう、とても50歳を過ぎているとは思えないバイタリティ。こういう風に年をとっていきたいなあ。

オスロで教師兼ヨガの先生をしているKarin。喘息を抱えながら5,500m以上まで行ったのはすごい。「もっと食べなきゃだめよ」と男三人に対していつも気遣ってくれた彼女はパーティのビッグママだった。3児の母で教師とヨガの先生をやりながら、Liseや同級生の友だちと今でも年に数回旅行に行く彼女もエネルギーの塊のような人だった。

スイスのインテリMarkus、アメリカンな英語でちょっと斜めに構えながらもジョークが好きなシャイボーイ。今はアフリカ縦断の旅の途中。フランス語、ドイツ語、英語。どれをとっても何語が母国語なのかわからない上、とても頭がいい。ヨハネスブルグまで気をつけて行ってこいよ!

そして一緒にピークに登頂したMarco、同い年ということもあり仕事からプライベートまで一番よく話をしたなあ。また今度一緒に山に登りに行こうぜ。

Written by shunsuke

2011年4月17日 at 8:03 PM

カテゴリー: 2010/10 Kilimanjaro