Archive for 8月 2007
テレビ放送のお知らせ「NNNドキュメント’07 シン先生と藩さん 人生を変えた教室」
日時:8月19日 25:20~25:50 (8月20日 1:20~1:50)
日本テレビ系列 NNNドキュメント’07 「シン先生と藩さん 人生を変えた教室」
四川省の農村開発プロジェクトから派生した日本語教室と、そこを卒業した学生のその後を追ったドキュメンタリーです。農村、貧困地域での教育の重要性とそのあり方という視点からの番組構成となっています(はずです)。
遅い時間での放送となりますが、中国の都市と農村の格差、教育問題、そして中国農村の現状に興味のある方はぜひ見てみてください。
フンザ&カシュガル旅行 Index
TG505 バンコク 19:50 → ラホール(LHE)22:30
7/15 ラホール → ラワールピンディ →(車中泊)
7/16 → ギルギット → フンザ
7/17 フンザ
7/18 フンザ
7/19 フンザ
7/20 フンザ → タシュクルガン → カシュガル
7/21 CZ6802 カシュガル(KHG)22:45 → ウルムチ(URC)0:25(+1day)
7/22 CZ6911 ウルムチ 8:10 → 北京(PEK)11:45
DAY8: カシュガルにて
午後、手紙を出しにホテルの代理店に入ると、ウイグル語の単語帳が置いてあった。そうか、中国語(漢語)を使っているから皆そっけないんだ。郷に入れば郷に従え、一番重要なことを僕はすっかり忘れていた。
これまで旅の間、たとえ数日の短い滞在であっても現地の言葉をできるだけ覚え話すことを心がけてきた。それが彼らの育んだ歴史と文化に対するよそ者の僕が払うことのできる最大限の敬意だと、僕はそう感じていたからだ。そんな大事なことを最後の日まで忘れているなんて、なんてもったいないことをしたのだろう。パキスタンでウルドゥー語やブリシャスキー語を数単語でも話せていれば、違った旅になっていたに違いない。
夕方早速単語帳を携えて宿から旧市街へと歩く。街の中心部から一歩入ると、急に漢人の姿が消えシリアで見かけたようなアラブ風の建物が立ち並ぶ。道端にはヒゲもじゃもじゃの男たちがくつろぎ、羊を焼く煙があたりに充満する。そんな街に合うのは漢語ではなく、やっぱりウイグル語だ。
ものごとの終わりはいつも寂しいものだ。だけど今回に限っては旅が終わるという寂寞は感じなかった。国境越えとカシュガルで自分の核となる感情に改めて気がつくことができたこと、そしてその表現方法は間違ってはいなかったこと。きっと満ち足りていたからだろう。夕暮れのポプラ並木の道を自転車で行きかう人の流れを見つめながら僕はそう思い、カシュガルをあとにした。
共有すること
カシュガル行きのバスはギルギットの先で僕を拾ったあと、ポプラが茂る谷を国境の街スストへと向かう。荒涼とした岩山はますます険しくなり、氷河が道に迫る。乗客は僕のほか、みなパキスタン人。男だらけ総勢16名。
12時過ぎにススト着、ここで一時間くらいかけてイミグレを通過していよいよフンジュラーブ峠越えの道に入っていく。ここから中国側のイミグレがあるタシュクルガンまで200kmあまり街はなく、ただひたすら灰色の岩山と、谷沿いに茂る緑、そして青い空だけが広がっていた。
スストから二時間あまりで国境の峠を通過。4730mということだが、チベットからネパールへの峠ほどの雄大さはなかった。冬のヒマラヤがそれほど雄大だったのか、それとも僕の感性が磨耗しただけなのか。
国境を越えて5分くらい行くと、中国側の手荷物検査があった。ここで乗客はみな荷物を持って降り、パキスタン側と同じように中身をすべて開けて係員に見せなくてはならない。解放軍の部隊らしき係員はみなまだ若く、よく聞くと大学院時代に聞きなれた四川訛りが聞こえる。きっとみな各地の農村からやってきたのだろう。
別に中国という国が好きなわけじゃない。これまで行ったことのない国に行く時の高揚感はない。だけど戻ってきたと感じる国は日本を除けばこの国だけだ。三年ぶりの中国。雄大な景色と緑の解放軍服、そしてふるさとを遠く離れて働く彼らの四川訛りを聞いてそんな感情がこみ上げてきた。
国境からさらに一時間半走り、北京時間午後9時に中国側のイミグレ、タシュクルガン着。国境でチェックしたはずなのに、再度荷物を全部出してチェックする。これで今日四回目。当然そこには長蛇の列。もちろん横入りする中国人、それに負けじと僕の背中にピタッとくっついてくる髭もじゃもじゃのパキスタン人。ああ、耐え難い匂いだ。
30分にわたるイミグレを抜けて、中国のスタンプが押されたパスポートを受け取ると、同じバスの乗客とタシュクルガン行きのバスに乗ってきていたツーリストたちがビールを片手に迎えてくれた。イギリス人、ドイツ人、カナダ人、韓国人。そして白いオウム服姿のパキスタン人たちもうれしそうにビールを飲んでいる。「cheers for free beers!!」乾杯を繰り返し無事中国に着いたことを祝いあう。一日に四回も荷物を検査され山道を越えた末に中国にたどりついた乗客たちは、いつの間にか苦難を共にした仲間となっていた。
そこから先のバスは、まるで遠足のようだった。ビール片手にみなが各国の歌を歌い合い、バスの中は歌声と笑い声が響き続ける。お祭り騒ぎは、途中カラクリ湖で数人が降りるまで一時間ほど続いた。単純なのかもしれないけど、結局目的や喜びを共有するってこういうことなんだろう。そしてそういう時は、恥とか見栄とかすべての心のストッパーを取り払ってただ楽しむ心を解放するに限る。隣で歌うムハンマド↓
今日このバスに乗り合わせた以外に何も接点のない僕らが、違いを超えて喜びを共有する。きっとこのうちのほとんどにはもう二度と出会うことはない。そんな仲間たちで愉快な時間を過ごせたことが最高にうれしかった。これこそ旅の醍醐味であり、僕が求めていたものだった。この夜のことはこの先も忘れることはないだろう。そんな最高の時を過ごせた国境越えだった。
DAY7: 感謝の気持ち
4泊したフンザを後にする日がやってきた。前日に買っておいたカシュガル行きのバスの時刻は9時。そのつもりでカリマバードからアーリアバードへと移動すると、目の前を新彊ナンバーをつけたバスが通過する。あれっ?と思いながらバスターミナルへ行くと「バスはもう行っちまったよ、8時って言ったじゃないか」の一言。おいおい、チケットに9時と書いてあるぞ。いつになくスムーズに来ていた旅だけど、やっぱり肝心のところで大波乱が起きた。つくづく詰めが甘い。
さて、どうしたものか。以前だったらここでチケットに9時って書いてあるじゃないか!と主張していたところだが、あいにく僕には時間がない。窓口のおっちゃんも話がわかる男で、チケットを返金してやるからタクシーで国境のスストまで行け、そうすればバスはつかまると力説する。一日一本のバスを逃してしまうと日曜日に帰国できなくなってしまう僕には選択肢はなく、2800ルピーも払ったチケットを返金してもらい横で話を聞いていたおっちゃんを捕まえてスストへ急ぐ。
フンザからスストまでの道のりはおよそ100キロ。フンザ川の峡谷沿いにへばりつくように切り開いたくねくねの山道を自称フンザナンバーワンのタクシーは80キロくらいの猛スピードで飛ばしていく。もちろんタイヤはつるつる、ガードレールはない。確かに運転はうまいんだけど、ちょっと滑ったら谷底行きだ。
そんな僕の心境なんて知らずに彼はやたらと話かけてくる。ウルドゥー語で「パキスタンの音楽聴きたいだろ?」みたいなことを言いながら、よそ見して後部座席に落ちていたパキスタンの国民的歌手のカセットテープを探したりしてくれる。日本で例えると北島三郎かな。フレンドリーなのはうれしいけど、今の僕に必要なのはパキスタンのサブちゃんより自分の命なんだよ、お願いだから運転に集中してくれ。
一時間ほど冷や汗をかいた後、グルミットを過ぎたあたりで早くも目の前に新彊ナンバーのバスが見えてきた。さすがはフンザナンバーワン、予想よりも早くにバスを捉まえ乗り換えることに成功する。タクシーを降りて1500ルピーの言い値を渡そうとすると、スストまで行ってないからと500ルピーを返してきた。これは感謝の気持ちだ、そう言って渡そうとするが受け取らない。
違う土地から来た者として感謝の気持ちをどう表すのか。これって難しいことだ。客という立場から感謝を表現するにはもちろんチップという形は効果的なのかもしれないけど、それは時に客以外の立場で接することを拒否することになる。僕はパキスタンに来て以来、知らず知らずのうちに単なる客としてでしか土地の人と接していなかったのかもしれない。きっとそれは僕が社会人になったことも影響しているのだと思う。気持ちは金じゃない、そんな単純なことを忘れていた自分が恥ずかしかった。フンザであまり写真を撮る気になれなかったのも、もしかしたら僕のその態度のせいなのだろう。
いち旅人として彼と彼の運転に感謝のハグをして、僕は国境越えのバスに乗り込んだ。残り二日余り、よそいきの客としてではなくて、いち旅人として人々と接していこう。
土地の恵み
この旅の間、毎朝必ずチャイを飲んでいた。中国人が真夏の暑い日でもお茶を手放さないように、パキスタンではとにかくチャイだった。朝起きて一杯、食後にも一杯。そして疲れたときは多めに砂糖を入れてもう一杯。さらに話がはずむともう一杯。カシュガルについてからもあの甘いミルクの味と、ほのかなカルダモンの香りがくせになってパキスタン人の店に入ってしまった。ソウルフードという言葉があるけど、チャイはきっとパキスタンのソウルドリンクだ。
よっちゃんに教えてもらったダウドスープは、フンザ名物のヌードルスープだった。シンプルな塩味なんだけど、羊のダシがしっかり出ていて印象深い味だった。もちろん初めて食べたのだけど、なんかどこかで食べたことのあるそんな素朴という言葉がぴったりくる懐かしい味だった。きっと何百年前からフンザの人々に受け継がれてきた味なんだろう。日本の家がぬかみそを受け継いできたように、フンザの家もダウドの味つけを受け継いできているのかな。
杏はパキスタン北部の名物。フンザでも村を歩くと谷のいたるところでオレンジ色の実がなっていた。フンザの子どもには絶好のおやつのようで、手の届く範囲の熟した実は全部子どもたちの餌食になる。少し賢いおばちゃんたちは朝あまり人がいない時間に長い棒を使って木をゆすり、落ちてきた杏の実を乾燥させて売っていた。
ダウドスープを飲んだローカルレストランでその杏たっぷりのアプリコットジュースも飲むことができた。出てきたグラスにはキンキンに冷えた完熟の杏が、100%ジュースというよりも杏をちょこっとつぶしただけの半固体がたっぷり注がれていた。日本の杏より甘く、完熟のいちじくに近い味。あーなんてぜいたくな飲み物なんだ。
土地が変われば土が変わる。土が変われば、味が変わる。きっと僕がパキスタンで味わったものも日本で食べたり飲んだりしたら全然ちがった味になるんだろう。風呂上りにこんなことを書いていたら冷えたアプリコットジュースがたまらなく飲みたくなった。
舌で味わったものを言葉で表現することは難しい。そしてほとんどの場合、主観的な味覚を他人と共有するのは不可能だと思う。だからこそ違う土地を訪れるたびに、その土からしかとれないものを味わうのは僕にとって楽しみであり、最高のぜいたくだ。
チャイ、ダウドスープ、そして杏。これらの味は、カラコルムの雪山と一緒にパキスタンの記憶としてはっきりと僕の記憶に残った。
DAY4-6: フンザ、変わっていくものと変わらないもの
この9日間の旅で、僕はフンザに計4泊することができた。でも、その4日間ほとんど風邪をひいてしまっていた。なんとか日本を出て2日でフンザにたどり着いたものの、やっぱり移動がこたえたようだ。
なかなか歩き回れなかったフンザだったけど、景色は思い描いていた通りのものだった。緑の里に茶色の岩山、そして白い雪山に青い空。この4つの色がどれも際立っていて、ずっと見ていても飽きなかった。人間ってなんてちっぽけなんだろう。この風景を見て感じた気持ちは、初めて上高地に行った時に感じたものに似ていたと思う。人間は自然に敵わないなと、そう切実に感じた。
変わらない景色がある一方で、農業中心だったフンザの人たちの生活は50年前と大きく変わったように見えた。観光が村の大きな産業となり、トレッキングの途中で通った村の中心地区カリマバードの段々畑はほとんど耕されていなかった。かつて外界と切り離されていた村にも電気が通り、YouTubeだって見られるようになった。少し寂しい気がしながらも、観光客である僕は、観光客相手に仕事をしている村人がいるからこうして訪れることができるわけであって、そんな僕が観光客相手の仕事が増えたことで伝統的な生活様式が変わることを嘆くのはやっぱり自己満足な気がした。
フンザ最後の夜にイーグルズネストで出会った30歳くらいのガイドの言葉が印象的だった。
フンザの農業を支えている山から引いている用水は私たちの先祖が、多くの犠牲を払ってつくり守り続けてきたんだ。何十年、何百年かけて農業中心の生活をつくりあげてきた。それなのに、70年代以降道ができて多くの村人が他の場所へ移っていったんだ。今ではパキスタン全土にフンザ人は散らばってるんだよ。それとともにカリマバードのように観光で暮らしていくところも出てきた。僕を見てみろよ。毎日英語ばかり話して外国人相手に仕事をしている。「変わっちまった」そう嘆く人もいる。けど、僕はそれでいいと思う。時代とともにフンザは変わっていかなきゃいけない。そうやって僕らが新しいフンザをつくっていけばいいんだ。
多少時間が経っているので一字一句はっきりと覚えていないけど、たしかそんな内容だったと思う。きっと僕にできることはほとんどないけど、いつかそれが5年後になるのか10年後になるのかまた戻って来て、彼が描いていたフンザを見てみたい、そう思った。