Archive for 5月 2006
コーラスライン
コーラスラインは初めて観たのだけど、四季だけあってクオリティは高かったと思う。 芸術、文学、音楽。心を揺さぶるアートは時代、ジャンルを問わず幸せにしてくれる。いいね。
ストーリーはいたってシンプルだ。
(以下、四季HPより引用)
ブロードウェイで新作ミュージカルのコーラスダンサーを選ぶオーディションが行われている。最終選考に残った17人が、1本のラインに並ぶ。演出家ザックが彼等に問いかけた。「履歴書に書いてないことを話してもらおう。君たちがどんな人間なのか」
姉さんのレッスンにくっついていっただけなのに、いつの間にか自分がダンサーになっていたマイク。複雑な家庭環境の中で、何もかもが美しく夢のようなバレエに憧れたシーラ・マギー・ビビ。音痴のクリスティン。高校の芸術コースで落ちこぼれて、独学で女優になったディアナ。美容整形を受けてからどんどん仕事に恵まれるようになったヴァル。女装のショウで踊っていたポール。そしてザックのかつての恋人で、スターへの階段を踏み外し、もう一度やりなおそうと戻ってきたキャシー。
戸惑いながらも、一人一人が自分の人生を語りはじめた。自分の人生では誰もが「主役」であり、境遇も悩みもそれぞれである。選考が進んでいくうちに、ポールが足を痛めてしまう。全員がかけより手を貸す中で、オーディションの下、共に舞台を目指す仲間意識が生まれていることに気がつく。そんな中、演出家ザックは皆に問いかける。
「もし、今日を最後に踊れなくなったらどうする?」
(引用終わり)
僕にとっては、就職活動をしていた頃の自分を見ているようでもあり、「お金や地位を人生に求めている人はここにはいない」そんな言葉に昔の自分を重ねたりもする。僕がそうであったように、今日演じていた四季の団員たちも生活を、夢をかけてオーディションに挑んでいる役に自分を重ねていた。そんな思いが伝わってきた。
劇団四季の上演開始当初は、
オーディションを描いたこのミュージカルの出演者を、オーディションで選んだという。ミュージカルではあるが、実際に目の前で演じている生身の人間の人生を賭けた、そんなリアルな舞台だったのだ。 ブロードウェイで6137回公演、観客動員数664万人。そして日本での公演1000回を超えてもなお、現在も世界各国で上演され続けているその魅力は、まさにこのリアルな迫力が持つドラマ性と、演じる役者が自らの人生を役に重ねて役者人生をかけて伝えてきた思いに他ならない。琴線に触れることができるのは、いつの時代も人が魂を削って伝える情熱なのだ。
「もし、今日を最後に踊れなくなったらどうする?」
演出家の問いにダンサーたちはこう答える。
「悔やまない 選んだ道がどんなにつらくても全てを捨てて 生きた日々に悔いはない」
胸をはってそう言える、そんな人生を歩んでいきたいね。
鷺沢萌 「君はこの国を好きか」
情景描写の隙間すきまに、自分のアイデンティティを模索する著者の苦悩が浮かんでくる。その一行一行が、韓国で自分の心に刻まれた傷の一つ一つをなぞるような苦しみとともに綴られたのだろう。
税金は納めているのに選挙権は与えられず、在日外国人として不便、不利、差別を受けて日本で育った。日本に言いたいことは、もちろん山ほどある。日本にやってもらいたいことも、山ほどある。それでも在日僑胞が日本に帰って「やっぱりいい国だよね」と言うのは、日本で生まれ育っているからなのだ。
日本にいても日本人扱いされず、韓国にいても韓国人扱いされない。日本にも裏切られ、韓国でも裏切られる。裏切りの連鎖。果たして自分は何者なのか。この苦悩は最近僕が読んできた満州育ちの日本人に近いものがあるだろう。
「やっと宿題を終えた」著者はあとがきでそう語っている。この主題を書くために作家になった、そう言えるだけの満足感があったのだろう。三島由紀夫の「豊饒の海」しかり、太宰の「人間失格」しかり。そういう意味では人生の主題を書けぬまま、自分が生まれてきた意味を分からぬまま死を迎える人間が多い中、彼女は幸せな作家、そして人間だったのではないか。そう思う。少なくとも、やり残したことはない。そう死んでいったのだと。
果たして自分は何者なのだろう。何のために生まれてきたのだろう。僕も10代後半から23くらいまでそのことばかり考えていたことがあった。「なんでこんな嫌なことばかりなのに、ここにいるんだろう。でも感電したんだ、だから頑張らなきゃ」在日三世として韓国で勉強していたという立場は違うけれど、中国でもがいていたころの自分と重なった。
彼女の人生が凝縮されている作品。ぜひご一読を。
遠くにありて思うもの
ほんの二ヵ月半前、僕はあそこの空港に降り立った。数十分だったけど、確かにあの場所に僕はいた。自分が行ったことのある場所、関係したことのあるモノに対しては人は敏感になる。どんなに遠い場所の出来事であっても、どんなに自分の日常から離れたことであっても、自分との関連性を見つけた瞬間、それはリアリティとなるからだと思う。今回、黒煙に包まれた空港を見て僕が感じたように。
そして、きっとそのことは人に対しても同じなんじゃないか。いかに、相手と自分との関連性を見つけ出して共感を覚えるのか。そこに人間関係におけるリアリティが生まれるのだ、そう思う。
これまで僕は、人づきあいが下手な人間だった。自分本位でしか相手との距離を測ることができない人間だった。きっと、自分の中に自信を持てるモノサシがなかったんだろう。そして、そのことは今も変わらない。変わったことがあるとすれば、自分が不器用なこと、苦手なことを素直に認めれるようになったことくらいだ。
だからこそ、自分の中で相手との距離を測るモノサシをしっかりと持っていたい。
そのためにも、自分と相手とをつなぐ関連性の選択肢を多く持っていたい。
keep traveling, going forward
きっと、一人旅を始めた10歳のころも無意識にそんなことを考えていたのだろう。27歳になって、ようやく自分の原点を言葉にできるようになってきた。うん、悪くないね。
さあ、北海道も残り二ヶ月。思う存分楽しんでいこう。
過激な予告に思うこと
苫小牧駅前にて発見。
いやあ、なかなか過激な予告だ。
これって器物損壊にならないのかな?
北海道は車社会だ。
道は片道三車線当たり前、歩道は自転車道。
北海道だけで九州よりも広いから当然といえば当然だけど。
その分、昔からあった駅前が寂れてきている。
企業進出が相次いで苫小牧自体の人口は増えているみたいだけど、
どんどん郊外へと街は広がり、みな車で移動する。
歩いて通える商店街が寂れ、大型の郊外型ショッピングセンターに人は集まる。
そして、マチのつながりが薄れていき、元からの住民と外から来た市民の間に接点がなくなっていく。
あれ?なんか似てるぞ。
つくばと。
苫小牧での時間も今日できっかり残り二ヶ月。
何か足跡を残すことができたら。
そんなうれしいことはない。