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Archive for the ‘2004/08 Losse Plateau’ Category

黄土高原ヤオトン滞在記 その5 -隣の村でのできごと-

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ヤオトン滞在記最終回。今回は隣の村でのできごとを紹介したいと思います。

「隣の鎮に行くけど一緒に行くかい?」村での滞在も終わりに差し掛かった頃、家の主からそんな誘いがあり、早速ついていくことにした。住んでいた村から目的地までは車で30分ほどで到着。もちろんここにあった家も構えはヤオトン式。

この日は京劇の巡業が来ているとのことで、村の広場には特設ステージが設けられていた。

村の人たちもみんな広場に集合。それにしてもこう改めて見ると年寄りか子どもしかいない。若者や働き盛りの人は進学や出稼ぎに行くためほとんど村には残っていない。考えてみれば中学校までしかなくて、仕事がほとんどないこの村に若者がいてもやることはない。

地方の小さな劇団の彼ら。こうして年の半分くらいは村と村をまわって公演をしているのとこと。半分仕事、半分ボランティア。

村の横を通っている街道沿いのガソリンスタンドで、若い女の子たちが働いていた。彼女たちは中学校まで出て、それ以降はこうして働いていてみんな17歳か18歳。月給は400~500元(2004年当時)。これでも村では貴重な現金収入の機会だ。

楡林市内や西安まで行けば中卒でも800~1000元くらいの仕事があるみたい。4人のうち2人は西安に2年くらい働きに行っていたけど、言葉も違うし慣れなくて去年戻ってきた「北京とか上海まで行けば仕事はあるけど、言葉も全然違うし、田舎ものは馬鹿にされるだけ。それだったら給料安いけど地元で暮らすほうがいいわ。あっ、でもいい服着たいし、やっぱりお金ほしい」そんな揺れ動いている彼女の言葉が印象的だった。

「そんな状況を打破すべく村で新しい産業を興そうとしてるんだ」家の主が紹介してくれた村の書記が、僕を村のある一角に連れてきてくれた。

この時期、土壌流出が激しい傾斜地の耕地を林地に戻す「退耕還林」という政策の一環で補助金が退耕還林を実施した農家に支給されていた。その補助金を村の党委員会が集めて新しい現金収入が見込める事業を起こそうとしているらしい。と、話し終えたところで書記が連れてきてくれた場所の光景に僕は目を疑った。

これって・・・「そう麻だよ、麻」これが高く売れるんだ。補助金使って大麻栽培、みんなたくましいなあ。

彼らが大麻を栽培することが違法であることを知っていないはずがない。だけど、産業がなくて農業限界地のこの土地で彼らが出した結論がこれだったんだろう。この国の現実主義にはいつも感心させられることが多いけど、この時の驚きは僕のこれまでの中国での経験の中で三本の指に入る衝撃だった。

中国で働いてみて今こう思う。学生時代に一ヶ月ヤオトンに暮らすなど、会社組織の中では体験することが難しい経験を積んでおいてよかった。この経験を通じて学んだことが、今彼らとビジネスをする中でとても活かされている。村を紹介してくれた大阪大学の深尾葉子先生、村で世話してくれた家の主、馬智慧、そのほかこのようなチャンスをくれたすべての人たちに感謝です。

ヤオトン滞在記、これにておしまい。

Written by shunsuke

2011年2月20日 at 5:35 午後

カテゴリー: 2004/08 Losse Plateau

黄土高原ヤオトン滞在記 その4 -村の葬式-

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ヤオトン滞在記も第四回。今回はヤオトンから離れて、村で暮らす中で体験した葬式のようすを紹介したいと思います。

ある朝、いつもとは違う村の雰囲気で目が覚めた。けたたましい管楽器の音。なんだろうと、家の主に聞くと長く病気を患っていた村のおばあちゃんが亡くなったらしい。外に出てみると、通りを大きな花を持った行列がねっていた。

僕も行列についていってみる。その向かった先の家ではすでに葬式の準備が始まっているようで、谷の対岸から見ると親戚らしき人たちが集まって家の前の庭で準備をしていた。

家に近づくに連れ楽器の音は大きくなっていく。太鼓、トランペット、シンバル。家ではもうすでにおじいさんから小学生くらいの子どもまで10人近い楽団の人たちが集まっていた。彼らは近所の村の人で、どこかで葬式があるたびに雇われてやってきて、故人を弔うため一日中演奏を続けるらしい。

しばらくするとだんだんと人が家に集まってきて儀式のようなものが始まった。まずは白装束に身を包んだ(たぶん)親族が故人への哀悼を示し大声で泣き、叫ぶ。そういえば香港映画か台湾映画でこんなシーンを見たことがあった気がするな。葬式というと今の日本では黒い服というイメージがあるけれど、ここでは白なんだよね。

正面から見た白装束。僕が小学生の頃にはやったキョンシーもこんな姿だったような・・・

親族の嗚咽と哀悼の言葉が終わると、テーブルといすがどこからともなく出されてきておもむろに食事が始まった。普段はあまり肉を食べない(食べられない)この村でもこういう時は別だ。豚を一頭つぶしてぶつ切りにして村人にふるまっていく。

そして待っていたかのように白酒が登場し、村人たち、村人をもてなす家の人たちとの間で乾杯が始まっていく。ああ、またか。このあたりの地方は寒くて乾燥しているからよく酒を飲むんだよね。そしてみんな強い。中国で白酒を飲んだことのある人はイメージできると思うんだけど、この日もまるで食べることはメインじゃなくて酒を飲むことが目的なような感じで水を飲むかのようにクイッと白酒用の杯を開けていく。僕もたっぷり酒を飲まされて写真を撮ることなどすっかり忘れてしまっていた。

この葬式はかなり組織化されていて、壁に葬式の間の食事と役割当番表みたいなものまで張ってあった。お酒は憑さんの当番なのね。

昼前から始まった宴は終わることなく続く。村の人だけじゃなくて、隣の村や遠い親戚やらが入れ替わり立ちかわりやってきて飯を食べ酒を飲んでいく。音楽も途切れることなく、途中から楽隊だけじゃなくて、村の人たちも飛び入りで太鼓をたたきトロンボーンを鳴らしていく。

最初はただの音としか耳に入ってこなかったのだけど、シンプルな旋律のリフレインを聞いているうちになにかお経のようにもレクイエムのようにも聞こえてくるのが不思議だった。

途中から太鼓を叩き始めた村のおじさん。なくなったおばあちゃんとは畑が近くてよく一緒に畑行っていたんだって。

気がついたらすっかり暗くなっていた。それでもまだ奏でられ続ける旋律。朝来たときにトランペットを吹いていたおじちゃんが汗だくになりながら吹き続けていた。すごいなあ、何かにとりつかれたかのようだ。

そして、いよいよ葬式も最後の段階を迎える。故人の遺影を孫が抱え、故人の棺を親戚で担ぎ、村の近くの山の上にある墓まで歩いて向かっていく。途切れることなく流れる音楽と、山に向かう行列を見送るたいまつ。なんか異空間に迷い込んだかのような一日だった。

後で聞いた話では、楽器も変わり食事も昔よりよっぽどいいものになったけど、スタイルは100年以上前から変わっていないんだって。これってすごいよね。初恋のきた道でも葬式の場面があったけど、これとほとんど同じような光景だった気がする。

この時からもう7年。今の村はどうなっているのかなあ。昔のことを書いていたら、この一ヶ月暮らした村の今の姿を見に行きたくなってきた。

Written by shunsuke

2011年2月17日 at 10:36 午後

カテゴリー: 2004/08 Losse Plateau

黄土高原ヤオトン滞在記 その3

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ヤオトン滞在記その3。今回は村で見かけたいろいろなヤオトンと、村の人々の紹介。村の家のほとんどの家はヤオトンだったけれど、ヤオトンにもいろいろなスタイルがあった。もともとは山の斜面に築くためにこのような形状の家ができあがったのだとおもうのだけど、普通の土地に建てられているのもヤオトンスタイルだった。みんな慣れ親しんでいるんだろうね。

この家は新疆に出稼ぎに行っている父親の仕送りでヤオトンを建て替えて中も豪華だった。他の家は土間が多い中、ここは全面タイル貼り。心なしか他の家電も立派だ。これじゃ村にいるほかの人も出稼ぎに行きたくなるのもわかる気がする。事実、この家の主人が出稼ぎに行った後、彼を伝って多くの人が新疆へ出稼ぎに行くようになった。

ここのおうちの母親と娘。女の子、飛飛(フェイフェイ)はすごく人なつっこくて、村に来た当初、なかなか村人にかまってもらえない僕の相手をよくしてくれた。よくよく話を聞いたら「お父さんいないからさびしいんだよ」と話してくれた。父親代わりは複雑な気持ちだったけど、彼女を通じて村のことをいろいろ教えてもらったなあ。今はだいぶ大きくなっただろうな。

フェイフェイとジュアンジュアン。二人は同い年でとても仲良し。どこに行くのにも二人はセットだった。

村の中には北京の四合院のように中庭のある家も。そして中庭を囲む家もやっぱりヤオトンスタイル。

四合院のヤオトンで出会ったおばあちゃん。この時すでに81歳って言っていたっけ。国共内戦時代に毛沢東や周恩来が村に来たことも覚えているって言ってたのが印象に残っている。

村の中には街に出て行ったため廃屋となっているヤオトンも多かった。人が住まなくなったヤオトンの庭に他の人が野菜を植えているのにはびっくりした。こういうところみんなたくましい。

こちらも廃屋。人が住まなくなってかなり時間が経っているようで、壁の表面がはがれ始めていた。

村の広場で会ったおじいちゃん。今ではほとんど見られなくなった人民帽にマオカラーの人民服。この頃(2004年)は村の年配の人の半分くらいは人民服だった気がする。

こちらのお宅は二階建て。でも一階部分はやっぱりヤオトンスタイル。部屋の間口もオンドルを含めた中の構造も他のヤオトンと変わらない。売店を経営しているこの家は、そこからの利益で二階部分を増築したらしい。中国の街や田舎でどこにでもあるあの売店、小売部。そんなに儲かるのか。

近くの廟の管理人のおじちゃん。ここ陝北の人は南の人と違って性格も酒の量も豪快な人が多かった。笑い方も豪快だ。この頃はマニュアルレフのスライドで撮っていたからいい色が出ているなあ。かなり露出オーバーだけど。デジタルだと便利だけど色の鮮やかさはスライドには適わない。

あともう一回くらいヤオトンシリーズを続けようかと思います。

Written by shunsuke

2011年2月13日 at 12:28 午前

カテゴリー: 2004/08 Losse Plateau

黄土高原ヤオトン滞在記 その2

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ヤオトン滞在記その2、今回は僕が暮らしていた村の暮らしを紹介しようと思う。この陝西省北部(略して陝北)は革命根拠地延安があったこともあり、典型的な旧革命地区、老地区だ。村の入り口には当時江沢民が広めていた「三個代表」のスローガンがあった。だけど三の字が欠けて「一個代表」に。これは皮肉か?

「打日本、救中国」老地区らしいスローガン。戦争時代のものがそのまま残っているのかな?戦争映画のロケにも使われていたと言っていたから、その時に書いたものかもしれない。どちらにしてもこの古い村の風景にぴったり溶け込んでいる。

村に残る、かつて毛沢東が暮らしたというヤオトン。若き日のマオさんの写真もあった。

村のメインストリートを丘の上から眺める。谷を流れる小川に沿って小道が続き、その谷の両側に人々がヤオトンを建てて暮らしている。

街の中心部。谷を流れる小川と小川が流れるところに街の中心はあった。中腹にヤオトンがあって、そこから山頂にかけては村の人たちの畑が広がっている。ヤオトンは景色の中に溶け込んでいて、注意深く見ないとどこにあるのかわからない。

土地という土地はすべて利用しつくされている。谷をつくっている山の斜面もところによっては斜面のまま畑として利用されている。中には25度以上も傾斜があるような畑もある。植えられているのはジャガイモ。ちょうど花が咲く季節で白い花が茶色い大地に映えていた。

畑に向かうにはこういう細くて急な道を登っていかなくてはならない。どこの畑も天水だけじゃ育ちが悪いから、天秤棒を担いで水をまきにいく。かなりの重労働だ。

村に電気はあるけどガスはない。オンドルの燃料のために、飼っている家畜のえさとしても草集めも大切な仕事だ。

少し考えてみればわかるけど、斜面の土地を耕したら土は簡単に流出する。特にこの黄土高原を覆っている黄土は粒子が細かく砂よりも細かくシルトに近い。雨が降ると水に溶けてドロドロになり、大地を侵食していく。これの積み重ねで黄土高原の侵食谷は形成されていった。雨が水の通り道をつくり土を溶かしていって、村の中の道を歩いてもこのような穴がいたるところにある。

村の真ん中を流れる川はみんなの憩いの場所、そして洗濯や洗い物をする場所でもある。

街の中を歩くと、ほとんど働き盛りの男性に会うことがない。あと若い女性も。みんな街に出稼ぎに行っているのだ。おじちゃんたちは道端で羊の売買の相談をしてる。

次は村にあったいろいろなヤオトンと村で会った人たちを紹介していきます。

Written by shunsuke

2011年2月11日 at 4:42 午前

カテゴリー: 2004/08 Losse Plateau

黄土高原ヤオトン滞在記 その1

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ひょんなことからヤオトンという名前を聞き、ふと懐かしくなったので紹介したいと思う。ヤオトン(窑洞)とは山西省や陝西省の黄土高原に見られる半洞穴式住居のこと。僕は自分の研究調査のため、2003年の冬と2004年の夏、この黄土高原のヤオトンに一ヶ月ほど暮らしたことがあったんです。

場所は陝西省北部のこのあたり。

最初にこの村を訪れた時は、その風景に衝撃を受けた。自然と闘っているという表現がぴったりの場所、そこで踏ん張っている人たちの姿を今でも新鮮に思い出すことができる。これが空からみた黄土高原。昔は森に覆われていた土地も、人口の増加で山のてっぺんまで畑になり、植生が失われたことで侵食が進んでこんな土地になった。

GoogleMapの写真で見てみるとこんなかんじ。

そしてこれが滞在していた村の近くの山のてっぺんからみた風景。見渡す限り、どこの山もてっぺんまで耕されている。これ、すごいよね。陳腐な表現しか思い浮かばないのが悔しいけど、僕はこの風景を見て、人間が生きていくっていうことの執念を感じたよ。

この場所へ向かうにはまずは北京西駅から汽車に乗り、山西省の大同へ行く。そう大同と言えば世界遺産の雲岡石窟があるところ。仏さまはいつ見てもいいものです。

そこからマイナーなローカル線に乗り換えて、砂漠化が進む地域を列車で走っていく。山西省から陝西省に入り、神木北駅で降りる。

そして、こんな感じのローカルバスを乗り継いで3時間くらい行くと目指す場所に到着。

初めて訪れたこの2003年の12月、とても寒い日で温度計が-15℃を指していたのをよく覚えている。村の丘の上からの風景。黄土に刻まれた侵食谷にへばりつくようにヤオトンが建てられ、人々が暮らしている。

これがヤオトン。この真ん中のヤオトンが僕の暮らしていたヤオトン。

ひえーほら穴に1ヶ月も無理!と思ったアナタ。結構このヤオトンは快適で2003年の時点ですでにインターネットもつながっていたんですよ。これがヤオトンの中。どこのヤオトンもたいてい奥にベッドがあってオンドルになっている。ベッド手前のかまどから暖気を送り込んで暖めるので、寝るときはかなり快適。だけど薪で火を起こすので、毎年一酸化炭素中毒で何人(何百人)も死んでいるらしい。

僕が暮らしたヤオトンは昔からこの村に訪問していた日本人の方が購入したもので、たまに知り合いに貸していた。この時は一泊30元。この方は今でもヤオトンの使用権を持つ唯一の日本人だと思う。

これまでは冬の写真だったけど、ここからは夏の写真。緑があるのとないのではまったく村の印象が違うんです。谷の対岸から見るとこんな感じ。谷にある道から家につながる小道が続いている。山の中腹に平らな土地を作って、そこから山の中に入っていくような感じで家が建てられているのがよくわかる。

家の前は平らになっていて、そこで野菜を育てている。家の主は家を建てるときに山肌を切り崩したと言っていた。これは買ってきたパクチーの種をまいているところ。ナスやトマト、トウモロコシやナツメなどがあったけど、トマトが信じられないくらい甘くておいしかった。

その平べったい場所の一角にトイレもある。もちろん汲み取り。汲み取ってその後発酵させて肥料として使っていた。ここは冬はマイナス20℃にもなり、降水量も年400mmくらいしかない。雨も土地も限られた農業限界地なので利用するものは何でも利用する。食事中の方、ごめんなさい・・・

どこの家もたいてい10匹くらいは家畜を飼っている。そしてその8割くらいがヤギだった。ヤギは厳しい環境でも生きていくことができる。だけど、草の根っこまで食べてしまうので、ヤギが多いと植生が戻らない場合が多い。ジレンマだ。

あと数回に分けて黄土高原のヤオトンのある風景、人、暮らしを紹介していきたいと思います。

Written by shunsuke

2011年2月8日 at 9:28 午後

カテゴリー: 2004/08 Losse Plateau