Archive for 12月 2006
Le Cordon Bleu
■メニュー
・海の幸のジュレ仕立て、キャビアとともに
・フォアグラのポワレ パンデミス風味 ビーズとセロリラブのモザイク仕立て
・金目鯛のポワレ ローレルとレモンのコンフィとともに ペンネのグラタンとドーブソースを添えて
・イチゴのシャンパンのグラニテ ミント風味
・仔羊の鞍下肉のロティ アスパラガスの穂先とトリュフのクーリを添えて
・エピス風味のハチミツのムース 洋なしとオレンジとともに 洋なしのソルベにホットココアを添えて
一品一品は、素材が厳選されていて手がこっていた。まさに、これぞフルコースという感じという重厚さ。鴨のフォアグラはビーツの酸味がよく似合い、濃厚という言葉以外に表現が見当たらない。金目鯛のポワレは実にふんわりと仕上げてあって鯛の甘みとトリュフの苦味が絶妙だった。
だけど、残念だったのが三点。
①デザートが洋なしの味だけが突出していて、デザートとしてのまとまりはイマイチだったような気がした。
②コースとしてのバランスが僕には重かった
③出てくるパンが冷たく固かった
デザートでもそうだったけど、素材の味、一皿としての完成度はすごく高いのだけど、コース全体としては僕には重すぎた。魚、肉、魚、肉、まるで四番バッターを並べた一時期の巨人打線のよう。ホームランだけじゃなくて、小技もできるピリッと野菜を活かした二番バッターもほしかった。
③に関しては、クリスマス時期だけに仕方ないのかもしれない。だけどパン好きとしてはそれなりの代価を支払っているのだから、焼きたてのパンが食べたかった。
ともあれ、おいしいごはんは人を幸せにする。食べて消化して、栄養となる。何も他の食事と変わらないのだけど、心と技がこもった料理を二時間以上ゆっくり時間をかけていただく。その時間が心を豊かにしてくれる。なんてぜいたくなんだろう。
そんな時間を過ごせたことに感謝。
南半球の時計
日時計の陰が北半球では右回りだからだろうか。もしそうだとしたら、南半球で住んでいた古代人は左回りの日時計を使っていたのかもしれない。
そういえば、昔見たオーストラリアの地図は南北が逆さに書かれていた。南が上で北が下。そうやって見るとまるで世界の中心にオーストラリアがあるように見える。でも、今南半球で左回りの時計が使われているという話は聞いたことがない。やはり、南半球を中心に世界は回っているわけではないようだ。
世の中には、いつの間にか決められて基準となっているものがたくさんある。自然の摂理だったり、力関係だったり。残念ながら南半球は、時計でのデファクトスタンダードになれなかったわけだ。もしかして、歴史の中で南半球にローマ帝国のような国家が誕生していたら、アレクサンダー大王やイエス=キリストが南半球で生まれていたら、時計は右回りだったのかもしれない。
もうすぐ明け方五時、二時間くらい右回りにならないかな。
星空
思えば、僕は昔から星を眺めるのが好きだった。北海道に住んでいた幼い頃、父に連れて行ってもらったオンネトーや然別湖で見た一面の星空。クリスマスプレゼントで買ってもらった天体望遠鏡を初めて覗いた時の驚き。そして、エベレストのふもとで見上げた降ってきそうな夜空。これまで、どんな場所にいてもいつも夜になると星を探していた気がする。
小学校の時転校して離れ離れになった友達たちも、もう何年も会っていない悪ガキたちも、旅路で出会った幾多の人々も、今この瞬間同じ星空を眺めているのかも知れない。久しぶりにそんなセンチメンタルなことを考えると、なぜか悔しさがこみ上げてきた。
半径500m以内での仕事が多い毎日の中で、空を見上げて思いをめぐらすことすら忘れてしまっていたこと。今、この場所に留まって星を眺めることしかできない自分に腹立たしい。
昔の旅人は、北極星を基準にして自らの目的地を目指していった。とは言え、北極星は際立って明るい星というわけではない。むしろ満天の星空の下では以外と見つけるのが難しい。もちろん、周りが明るすぎても見えにくい。
選択肢が多くても迷う、少なくても困る。まるで人生みたいだ。今の僕は晴れときどきくもり。星空が見えたと思ったら、すぐ隠れてしまう。雲が晴れる日はきっと近いはずだ。せめてその日まで空を見上げる余裕は忘れずにいよう。
カワイルカの絶滅
こういうニュースは残念、いや悲しい。
六年前にラオスにいたとき、メコン川唯一の急流地域、シーパンドンでメコンのカワイルカを目の前で見ることができた。今そのメコン川も雲南省での電力供給増加のためのダム開発、大型船通行のための浚渫により生態系の悪化が懸念されている(詳細はメコンウォッチHPを参照)。
人間は自然をコントロールできる、今の自分たちには不可能なことなどない。今の中国にはそんな傲慢な姿勢が感じられる。三峡ダムしかり、南水北調しかり。
自然の摂理を人工的に捻じ曲げて、その後には何が残るのだろうか?もちろん、経済発展によってより多くの選択肢を手にする権利は誰にでもある。ただ、そのスピードがいささか早すぎるんじゃないかな。やっぱり適当なバランスが大切なんだと思う。
結局、人間も生態系の一部、自然と決別しては生きられない。いつかあの国は痛い目にあう。これまで雲南、北京、陝北、四川と中国の人々と自然を見てきたけれと、このニュースを聞いてそう思った。
以下、ニュースの転送
中国の長江(揚子江)だけに生息する珍しい淡水イルカのヨウスコウカワイルカ(バイジー)は絶滅したといえると、中国や米国などの研究グループが14日、明らかにした。
日本の研究者も加わり、11月から12月、6週間かけて長江で延べ3500キロにわたって大規模な調査を行ったが、1頭も発見することができなかったという。
バイジーは、数百万年前から生息していたとされる小さな目の白いイルカで、中国では「長江の女神」と呼ばれた。1980年代初めには約400頭が生息していたとされるが、1997年の探査では13頭が見つかり、2004年には1頭の目撃報告があった。
グループは、長江の頻繁な船の往来がバイジーが餌をとる際の妨げとなったほか、餌の魚の乱獲や水質汚染が生息環境を悪化させたことが減少の原因としている。
こうした環境の変化は、長江で生息数が400頭以下まで減少しているとされるスナメリにも悪影響を与えているとみられ、同グループは「このままではスナメリは第2のバイジーになる」と警告している。
愛猫の死
僕が13歳の時に家に来て以来、15年間ずっと家にいた猫だった。両親は、二人の子どもが家を出た後わが子のように、いやそれ以上に可愛がっていた。
18歳で僕は家を出たから、その後10年生き続けたことになる。死んだ猫に対して悪口は言いたくないけれど、実に可愛げのない猫だった。
顔はお世辞にも美人顔とは言えず、(おそらく)猫の中でも愛想のない部類に入る猫で、慣れている人にしか近づかない、他人が触ろうとするとすぐに爪を立てていた。
見方を変えれば、それだけ臆病で神経質だったのかもしれない。猫は人間の持つ五感情(喜び、不安、怒り、悲しさ、苦しさ)のうち、怒り以外の四感情を持っているという。犬にはない不安の感情を持っているシロは、自分が器量が悪いことを自覚して自己防衛していたのかもしれない。そうだとしたら利口だったんだね。
運動神経も悪かった。
猫は逆さに落ちても空中で宙返りをしてうまく着地するというが、一度座布団の上から試したらそのままドテッと背中から落ちたことがあった。階段を登ると、タッタッタと軽やかに登るのだが、たまにタッタッタ・・・ドテッと足を踏み外すことがあった。
もし、天国の階段を登ることがあっても、きっとシロならまた足を踏み外している気がする。
最後は、老衰に近い形でやせ細って息を引き取ったと、母がメールで伝えてくれた。寂しがりやのシロのことだから一匹で死んでいくのが怖かったのかもしれない。身体を動かすことができなくなっても、最後まで生きようとしていたのかもしれない。
年末、実家に帰るときには花を買っていこう。
シロが大好きだった鰹ぶしも添えて。