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Archive for 3月 2011

2013年3月11日の日本を想像してみた

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※この話はフィクションです。てきとーに読み流してください。

2013年3月11日。この日銀座4丁目の交差点に店を構える百貨店が最後の営業を終え、80年以上続いた歴史に幕を閉じた。この百貨店は2010年に海外からの観光客を意識して増床したが、それが経営を圧迫、2月に民事再生法を適用した。これで2013年に入って4件目の東証一部企業の経営破たんとなった。

日本は2011年3月11日の地震によって変わってしまった。

いや、正確な言い方をすれば地震後に発生した原発からの放射能漏れ事件と、その事件に対する日本政府の対応ですべてが変わってしまった。地震発生後に制御不能になった福島第一原発への対処に際し、政府は漏れ出した放射能の数値を公表せず、ただ「安全です!」との何の科学的根拠もない言葉を繰り返した。さらにその後国内の食品の放射能規制値を引き上げるという愚行に世界の日本政府に対する不信感はピークに達した。

原発の問題が明らかになった後、最初に行動を起こしたのは在日外国人と日本に支社を置いていた外資系企業だった。見えない放射能から真っ先に逃れようと成田空港には外国人が殺到し、欧米の日本支社は香港やシンガポールに移された。

その後、日本と外の世界との人の往来が激減した。

政府は1,000万人の訪日観光客を目指していたが、2011年3月を境に訪日客はバタリと絶え、2011年の訪日外国人数は対前年度比74%減の200万人となった。そのうち2月までに140万人が訪日済みだった。香港の大の日本好きLauさん(32)はこう語る。「これまで年に2、3回くらいディズニーシーとか遊びに行ったりしていたけど、さすがに行かないわ。日本はもちろん好きよ。スシもラーメンも大好き。でも好きなのと行くのは別。だって放射能は浴びたくないもの」

東京を極東のハブとしていたユナイテッドとデルタ、両エアラインはそれぞれ香港とソウルに極東のハブを移した。引き続きアメリカにとって日本が大事な同盟国であることは変わりない。ただ訪日客の需要がなく、乗務員の安全に影響を及ぼすような可能性のある東京をハブとしている理由はすでになかった。

日系航空会社は悲惨な状況だった。乗客客、貨物数が50%超減少する中、2011年度末に二大エアラインは国営化され統合した。従業員の給与は40%カット、高給の象徴であったパイロットの給与は50%を超えるカットとなった。

東京のホテルは軒並み休業を決めた。真っ先に休業を決めたシャングリラホテルの東京支配人はその英断によりCEOとなり、大手外資ホテルの多くは東京を撤退した。訪日客を当てにしていた観光地は壊滅的だった。

原発の原子炉は地震発生から1ヵ月後にようやく冷却に向かったが、大気中への飛び散った放射能は雨や風に乗って東北、関東各地へ飛散していき雨となって海水、河川や地下水、そして土壌へと蓄積されていった。各国は日本から輸入品に対する放射能検査をはじめ、EUでは日本からの食品輸入が全面的に禁止された。「安全です!」との防災服を着た首相の言葉にも関わらず世界各地で各国の規制値を超えた放射能が検出される日本製品に、日本ブランドの評価はがた落ちとなり、原発事件とは関係のない四国や九州でつくられた製品もMade in Japanというだけで輸入禁止となった。

この動きを受けた日本メーカーの対応は早かった。世界市場で生き残るため、各社は生産工場を他国へ移し始めた。すでにタイで主力車種の生産を始めていたある自動車メーカーは真っ先にすべての日本国内の生産拠点を閉鎖することを決定した。斬新な製品で知られる電機メーカーもアメリカ人社長が本社をシンガポールに移すことを発表した。世界各国の幹部が会議をするのに東京に行きたくないというのが最大の理由だった。10年後にはブランド名が英語のその会社を、もともとは日本企業だったと知る人すら少なくなるだろう。どちらの会社の判断も、Made in Japanというだけで製品が受け入れられない現状を考えるとしごく当然の判断だった。

日本と外の世界とのモノの往来も激減した。

“安全な日本、信頼できる日本製品”戦後長い間かけてコツコツ積み上げてきた、日本ブランドに対する信頼はあっさりと崩れ去った。

政権は地震の前に法人税を35%にする閣議決定をしていたが、そんなものは何の意味もなかった。たとえ法人税を1%にしても東京に本社を移し、日本に税金を納めようという企業はいなかった。放射能に汚染されるということは、その土地が世界の人とモノの動きから取り残されること。2011年度の法人税収入がほとんどゼロとなる見込みになった時、一年間作業着を着続けた首相は自分の「安全です!」との言葉を誰も信じていなかったことにようやく気がついた。

地震後日本から原発は消えた。各地で地元のバイオマスや自然エネルギーを利用した小規模発電が広がった。地震発生後は節電のために街の明かりは暗くなったが、今ではどの街もネオンが輝いている。日本の製造業の多くが拠点を閉鎖したため原子力発電に頼らなくても電気はまかなえるようになったのだ。ただ今更原発をなくしても、いったん放射能に汚染された土地はすぐには元通りにはならない。放射能同位体の一つストロンチウム90の半減期は30年もあるのだ。

絶望的な状況の中でも日本人は頑張り続けた。地震でひび割れた東北自動車道は2ヶ月で全面復旧し、津波で流された街は2年のうちに再建された。世界はその日本人の不屈の精神を讃え続けた。しかし、現地を取材する人間はみな拠点を閉鎖したためほとんどいなかった。それとは別に優秀な高校生は東大に行くよりもハーバードや北京大学、シンガポール国立大学に進学するようになった。もはや日本国内と世界を結ぶような仕事は圧倒的にパイが小さくなっており、グローバルに活躍するならば日本を飛び出すのが手っ取り早かった。海外に飛び出した若い才能たちが唯一の希望となった。

輸出が激減した結果、財政収支に加え貿易収支も大幅な赤字となり、日本の国債が世界中から注目されることとなった。地震後災害復興を名目として国債発行高は急増し1,000兆円を超えた。そして、昨年末から金利もじわりと上昇しつつある・・・

ということで、政府のみなさん。もうすでに遅いかもしれませんが、あまり適当な対応ばかりしていると世界から完全にそっぽ向かれますので、事実をそのまま国民、世界の皆さんに伝えてくださいね。

Written by shunsuke

2011年3月27日 at 5:38 午後

有川浩の世界

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最近一番気になる作家が有川浩さん。2006年くらいから「図書館戦争」シリーズの存在は知っていて気にはなっていたのだけど、「明日の記憶」の荻原浩とごちゃまぜになって読む機会がなかった。そしてものすごく失礼な話なんだけど、ずっと男性と思っていた。

去年ようやく有川さんは「ひろ」で荻原さんが「ひろし」ということを友人から聞かされ、「阪急電車」と「レインツリーの国」を薦められ読んでみた。読んでみると登場人物の心の中の微妙な変化を会話やしぐさで表現するのがとても上手で、すぐに作品の中に引き込まれてしまった。

両方とも特に硬派なテーマを扱っているわけじゃないんだけど、日常の中のひとコマひとコマから物語が生まれてきて巧みな会話にリズムが刻まれていく。どんな平凡な日常でも自分の世界をつくってしまう、一言の言葉から何十個の物語を想像できる人なんだと思う。この人すごいなあ。きっとものすごく繊細で、小さい時から感受性が強くてなかなか同世代の友人に混じって遊んだりすることができなかったんじゃないかなと、勝手に想像してみた。

まだ二作しか読んでいないので、他の作品もぜひ読んでみよう。旅先や出張先で時間ができたときにパラパラと読むにはもってこいです。

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Written by shunsuke

2011年3月26日 at 11:09 午前

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食いだおれ出張記

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9日ぶりの日本。テレビから「東京でも食べ物がない!」との映像が流れていたので、覚悟して戻ってきたものの、ものがあふれるスーパーのようすを確認して一安心です。

地震の被災地で食べ物に困っている人には申し訳ないくらい、とにかく食べてばかりの最近でした。基本的には朝は麺で、昼と夜はみんなでつついて食べる中華飯でした。朝ごはんの麺たちはこんな感じです。

こちらは縮れ麺に濃い目に味付けしたひき肉をのせたやつ。お好みでチリをかけてかき混ぜる。すると、ひき肉のソースとチリが麺が絡み合って食がすすむ。朝から食べすぎだ。半分くらい食べてからスープを入れると、スープなしの時とはまた違った味が楽しめる。一度で二度おいしい。広西の米粉と同じだね。

東南アジアといえば、エビを忘れちゃいけません。小さい時はにおいをかぐだけでも嫌だったのに、今ではおいしいエビなら喜んで食べますよー。どの麺にも共通していたのは、店ごとに味にこだわってじっくり煮込んだスープがある点。ここはエビや貝を弱火で煮たしてダシをとっていた。もちろん味は文句のつけようがありませんです。

そしてラクサ。米粉そっくりのビーフンに魚系のダシをたっぷりきかせたココナッツ味のスープを注いで、チリを入れて食べる。実はこれまで食べたことなかったのだけど、甘めのスープとチリもただ辛いだけじゃない。いろんな香辛料を炒めてつくられたペーストは辛さの中にコクがあってこれに白飯かけて食べたいくらい。そんな甘さと辛さを一度に楽しめるラクサ、やみつきになりそう。

食べてばかりじゃなくて、それなりに仕事もしてます。ボートで川をさかのぼったり。

南国の鮮やかな花に見とれたり。

蝶の大群にも遭遇した。これはびっくり。

時にはご飯食べることも仕事だったり。

スコールのあとはこんな虹も。うまく写真に撮れなかったけど、二重に虹が出て幻想的だった。二重の虹は初めて見た。

そうそう、夕日も忘れちゃいけない。海に夕日が沈むので毎日絵の具をキャンバスに塗ったような鮮やかな夕日だった。なかなかゆっくり夕日を見る時間はなかったけど、最終日にようやくこの夕日を眺めながらゆっくりお茶を飲むことができた。幸せなひとときだったなあ。

そんな内容の濃い時間の中で、一番印象に残っているのは地元の人々ののんびりした生活の時間の流れとおおらかな性格。もちろんビジネスはビジネス。それでも一度じっくり根を下ろしてここで生活してみたい。そう思わせる場所でした。また行くことができるよう、うまく形にしていかないとね。

Written by shunsuke

2011年3月22日 at 2:04 午前

台湾からのメッセージ

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今夜10時くらいのこと。出張先のホテルに帰ってテレビを着けたら、台湾のTVBSで日本の地震の被災者のためのチャリティー番組をやっていた。その名も「送愛到日本」。生放送で1億1420万台湾ドル(約3億円)の義援金が集まったとのこと。

台湾もよく地震が起きる国で、1999年には2,000人以上が亡くなる大きな地震も起きている。僕もその時に募金をしたことを思い出した。そんな地震の怖さを知る国から届いた愛、いち日本人としてうれしいよ。

地震発生から一週間。僕はまだ32年間しか生きていないけど、こんな混乱した母国の姿を見るのは初めてだ。真っ暗な原発でぎりぎりの仕事をしている人たち、寒さがぶり返した被災地で避難生活を過ごす人たち、計画停電で不自由な暮らしの中にある人たち。そんなすべての人たちに世界中からの愛が届きますように。

Written by shunsuke

2011年3月18日 at 2:16 午前

カテゴリー: 日本のことや世界のこと

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銀座で過ごした震災の夜

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金曜の午後、僕は少し高揚状態だった。

金曜の夜便で香港へ行き週末は旧友と香港でリラックスするために、先週からかなり力を入れてきた報告が午後一番で完了したところだった。すべてはスムーズに退社するために、そのために今週は全力を尽くしてきた。

報告が終わり、次の月曜からは一週間出張でいなくなるので、その作業にとりかかろうとしたところ、地震はやってきた。最初は小刻みに震えだして、そのあと縦ゆれがやってきた。そして数十秒後には横揺れが始まった。

ビルの11階にあるオフィスは2階から4階がコンサートホールになっていることもあり、通常のビルの15階くらいの高さにある。その高さもあってか、揺れはものすごくてとても仕事は続けてられず部署のみんなで机の下にもぐりこんだ。横揺れでグラグラと揺れるビル、きしむ天井。このままポキッて折れちゃうよ!とみんなで叫びながら揺れが収まるのを待った。デスクから落ちるファイル、ガシャーンと棚の上から落ちて壊れる地球儀。被災地の方からすると大げさかもしれないけど、このまま死ぬのかなとちょっぴり死を覚悟した。

数分してようやく揺れが収まり立ち上がる。ビルのせいか揺れが収まっても建物はしばらくグラグラと揺れていて、まるで荒れた海の中を航海している船に乗っているようだった。ああ、助かったとほっとしてテレビをつけてみる。震源地を聞いたとたん、東京でこの揺れなのだから東北は大変なことになっているだろうとある程度の察しはついた。

ふと我に返り、フライトの時間を確認する。フライトは18時40分、16時過ぎにはオフィスを出ないと間に合わない。「電車止まってるだろ」と同僚から言われながらも、とりあえず成田空港に向かおうと余震で小刻みに揺れるオフィスを後にしてまずは銀座線で上野まで向かおうとする。もちろんオフィスのエレベータは止まっており、スーツケースを持ちながら長い道のりを下り3分くらいかけてようやく地上にたどり着く。

銀座の町は思ったより人通りが少なかった。松屋から地下に下りてみると案の定銀座線はストップ、どうやら東京メトロは全線止まっているらしい。気を取り直して1kmほど離れた東京駅まで行ってみる。道中時々すれ違う救急車以外は普段と変わらない町並、ただ東京駅に近づくにつれ人が多くなり、最後はスーツケースを引いて歩くのが困難になるくらいだった。

たどり着いた東京駅は入り口のガラス戸が閉められ一般人は立ち入り禁止。空港までのバスも全線ストップ。成田に向かうのは諦めてまだ営業していたサンマルクカフェに寄ってパンを大量に買ってオフィスに戻る。東京でもすごい揺れで交通機関がすべてストップしていたのにも関わらず、通行人もお店の人たちも怒号をあげることなくいつもの街の姿があったのが印象的だった。写真は扉が閉ざされた東京駅。

オフィスに戻り成田空港も閉鎖されたことを知る。今考えてみると電車動いているわけないのだけど、その時はとにかく空港に向かうことに必死でそこまで頭が回っていなかった。もう仕事も手につかないので、同僚たちとテレビを見ながら津波被害のすさまじさを目の当たりにし、改めて地震の大きさに気づかされる。定時以降も交通機関が回復しないので、歩いて帰ることができる人(10kmくらい)以外は全社員待機の指令が出て、仕事しているのか時間をつぶしているのかわからないような時間が流れる。

18時には備蓄食料を配ります、との社内アナウンスが流れ皆で非常階段に並びバケツリレーで地下から食料と水を持ち上げる。配られた食べ物が乾パンだけだったので、その後食料探しに外へ出てみると、コンビニの水と食料はからっぽ。閉店間際の三越のデパ地下に行くと、まだまだパンと惣菜があったので大量に買い込み職場に持って帰る。やっぱりおなかがすくと気持ちもすさむから、こういう時こそ可能なかぎりおいしいものをみんなでシェアしないとね。乾パンと水しか配られなかったので、みんな喜んでくれたのがうれしかった。

三越は20時の閉店前後もまだ帰ることができないのか客がかなりいて、椅子に腰掛けていた。アナウンスによると帰ることができなくなった人たちのために8階かどこかを開放したらしい。隣にあるわがオフィスも立地としては最高なんだからホールや1階を開放すればよかったのに。そう思ったけど、企業としてはやりにくいか。

一向に解除されない待機命令。埋立地を走る京葉線は弱そうだし一晩過ごすことを覚悟する。とはいえやることも限られてくるので、上司や友人と打ち合わせ会社そばの雀荘へ行き朝までマージャンをやって過ごす。マージャンをやりながらも流されるニュースで克明になっていく甚大な被害状況。そして刻一刻とつみあがっていく僕のマージャンの負け金額。結局朝になった頃には、香港で遊ぶ予定だった金額と同じくらいの負け額がつみあがっていた。

被災地の人たちを考えると不謹慎かもしれない。だけど、帰る手段がなくて過ごさなきゃいけない一夜を過ごすには、10分ごとおきくらいに余震が続いてその度におびえるような夜を過ごすからには少しでも楽しく過ごすべきだと思った上での判断だった。判断は正しかったけど、捨てる牌は間違えたようだ。

翌朝、まだ動いていない京葉線を諦め、銀座線で上野まで出て京成線を使って千葉まで帰る。

形成上野駅では警察官と職員総出で乗車規制を行っていて、みんな一列に並んでいた。場所がら成田空港まで行く人も多く外国人も多い。そういう人には誰からともなく言葉を話せる人が通訳していた。

飛行機に間に合わせるために急いでいる人もいたと思う。だけどみんな譲り合いながら怒号が交わされることなく並んでいた光景を見て感動した。一つの目的を共有した時の日本人の団結力はすごい。大げさでもなんでもなく世界一だよ。

自己主張が少ないし、何を考えているのかわからない人も多いけど、日本人はすごいよ。マッカーサーが今日の光景を見たら『これがカミカゼを可能にした精神か』と恐れるはずだよ。僕はこの上野駅の光景を誇りに思う。

家には15時くらいに到着。今夜からは羽田発で出張なので、今からパッキングしなおして行ってきます。

Written by shunsuke

2011年3月13日 at 1:51 午後

DAY6: てっぺんから朝日を見たら涙が止まらなかった

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Climbing day 5: Barafu Camp(4,670m) -Uhuru Peak(5,895m) – Mweka Camp(3,100m) 22km

頂上アタックの日、23:00にシュラフを抜け出し準備にとりかかる。結局この日もほとんど寝ることはできなかった。これで三日連続。それでも頂上アタックへの高揚感か不思議と高山病の症状もなく疲労もほとんど感じない。待ちに待ったアタックを前にして身体の中からエネルギーが湧き出てくるような感覚だ。

「23:00に朝食のビスケットを運ぶよ」と言っていたアシスタントガイドのNikkiは結局23:40にやってきた。こんな大事な日に、と思ったけどポレポレの国だから仕方ない。口に出すとそれがパーティの雰囲気にもつながってしまうこともあるので、ここは言いたいことをこらえて飲み込んだ。この日は頂上まで登った後さらに3,100mくらいのところまで下りる長丁場、朝ごはんはしっかり食べておかないと。

0:10にようやくパーティ全員の準備が終わり出発。今思えばここでアタック前の記念写真でも撮っておけばよかったけど、実のところそんな余裕はなかった。パーティの調子はMarcoを除いて相変わらず万全じゃない。特にMarkusは咳が出始めていて風邪の具合いが悪化しているようだ。

僕らは4,670mのBarafu Campからキリマンジャロ・キボ峰のMachame Routeにある外輪、5,745mのStella Pointを目指す。頂上まで登ってそこから下りてくることを考えると、登るのにあまり時間をかけすぎることはできない。

月明かりが照らす岩と砂利の道をヘッドライトを頼りにして登っていく。登り始めた時から喘息持ちのKarinのペースが上がらずに、僕らは彼女のペースに合わせてゆっくり登っていく。僕自身の体調はかなりいい。ボリビアのワイナポトシの時よりも呼吸も楽で、ほとんど息が乱れない。Marcoとの間ではジョークを交わす余裕もあるくらいだ。

登り始めて2時間弱が経った2時頃、5,000mを突破。途中5分ほどの休憩をはさんで二時間弱で300m、最初考えていたペースよりもかなり遅い。日の出は6時前後。それを考えると頂上から日の出を見るにはあと800mを4時間で登る必要がある。

どうしても頂上から日の出を見たい僕としては少し焦るけれど、ここまで一緒に登ってきたパーティの仲間と一緒に頂上に登ることほうが大切だ。2時30頃、Markusがリタイア。かなり風邪の症状が悪化しているらしく彼自身の判断でリタイアを決断したようだ。「これより高く登って動けなくなる可能性を考えるとここでリタイアするよ」咳をすることで相当量の酸素と体力が失われていく。5,000mを超えた場所でのその消耗は相当なものだったと思う。残念だけど彼の咳の具合いを考えると賢明な判断だった。

5,000mを過ぎた頃からKarinの足取りは更に重くなった。時計が3:00を指した時点で5,130m。ここ一時間で130mしか高度を稼げていないことになる。呼吸がぜいぜい言っているのが後ろを歩いている僕まで聞こえてきて、こちらが気の毒になってくるくらいだ。それでも歩みを止めないKarin、その根性はすごい。

3:30、5,200mの地点でとうとうKarinが歩けなくなった。「Liseも高山病の症状が相当ひどいから私と彼女はJohnとゆっくり頂上を目指すわ。あなたとMarkusは二人で頂上を目指して」仲間からのその言葉を聞き、僕とMarcoそしてガイドのLarahaの三人で先に頂上を目指すことになった。

Stella Pointまではおよそ550m、アタック開始時には5人のメンバーに3人のガイドがいたけれど、残っているのはもう3人。これまでのペースを取り戻すべく僕とMarcoはペースを上げて登っていく。ここまでくると僕とMarcoも会話をする余裕がない。何かを考える余裕すらない。ただ足を動かし、足を動かすために呼吸をする。

Karinたちと別れてから1時間、4:30に長めの休憩をとる。標高5,500m。1時間で300m稼いだことになる。これまでのペースの二倍。ザックを置いて岩に寄りかかると、これまで張り詰めていたものが切れたのかどっと疲れがでてきた。Marcoはまだ足取りもしっかりしているし、呼吸にも余裕があるけれど正直なところ僕には限界のペースだ。

そんな僕に気がついたのかLarahaがとっておきのものを出してくれた。ポットに入れた熱くて甘い紅茶。一口飲んだだけで、疲れと寒さで固まった体中の筋肉と心がほぐされていくように、体中に染み渡っていく。Larahaありがとう。なんかエネルギーが沸いてきたよ。紅茶と一緒に中国から持ってきたオレオでエネルギー補給。泣いても笑っても日の出まで1時間半。Marco、Laraha、残りの仲間の分まで登ろうぜ。

紅茶で復活したものの登り始めて10分もしないうちに言えようもない疲労感が襲ってきた。身体が重く足が進まない。そして猛烈に眠い。前を行くMarcoに遅れないよう気力を振り絞り足を進めていくけれど、ふと意識を失いそうになる。考えてみたら丸3日も眠れていないのだから当たり前だ。おい、俊介ここは気合いだ気合しかないだろ。そんなことを言い聞かせながら、何回か意識を失いそうになりながらも踏ん張りひたすら上を目指す。

そして5:30、とうとうStella Pointに到着。僕とMarcoもザックを投げるようにして下ろし、言葉にならない歓喜の言葉を叫びながら抱きあう。Marcoありがとう。Marcoがいなかったら僕も諦めていたかもしれない。一緒に登れたからここまで来れた。後ろを振り返るとちょうど月と同じ方角から空が明るみ始めていた。

これまで登ってきた道の向こう側から明るくなっていく空を見た瞬間、いろいろなものがこみ上げてきて思わず泣いてしまった。涙が一筋流れるとかではなくて号泣してしまった。なぜだかはよくわからない。キリマンジャロでここまでたどり着いた達成感だけでなくて、南寧で一年ちょっと孤独に耐えながら手探りで生きてきたこれまでの苦労が思い出されたのかもしれない。涙を流したらちょっと肩の荷が楽になった気がした。

15分ほど休み、キリマンジャロの最高地点Uhuru Peakに向けて歩く。もう頂上の一端には来ているので、富士山に例えるとお鉢めぐりみたいなものだ。6:00過ぎに朝日がようやく顔を出した。

横を見ると氷河が朝日に輝いてキラキラ光っていた。150年前はそのほとんどが厚い氷に覆われていたキリマンジャロの頂上も、今では部分的に氷河が残るだけになっている。

氷河の近くを歩いていると数分置きにピシピシッと大きな音が聞こえてくる。Larahaによると、氷河が進んだり、溶ける時にこの音が聞こえてくるんだそう。このペースで氷解が進めば2020年にはキリマンジャロから氷河がなくなってしまう可能性が高いとか。今数mあるこの氷河もなくなってしまうのか。メルー山をバックにした氷がきれいだった。

6:43、出発から6時間半かけてUhuru Peakに到着。よく見るこの頂上の看板の前でMarcoと一緒に記念撮影。下のほうに誰かが持ってきたのかタルチョがかけられてあった。

Uhuru Peakからクレーターを見下ろすと溶け残った雪がポツンと残っていた。ちょっとさびしそう。スキーヤーの三浦豪太さんは30年前にこのクレーターをスキーで降りていったらしい。今ではどこにもそんなことができる場所がありそうにない。

僕もMarcoもかなり疲れていたので名残惜しい気持ちを振り払って10分ほどでUhuru Peakをあとにする。さっきまで登ってきた石と砂利に覆われた外輪山の道を一歩一歩思い出に刻むように下っていく。このあたりの様子は富士山の頂上にそっくりだ。

30分ほどかけてStella Pointまで戻る。そこで最後になったクッキーをおなかの中に入れ、Barafu Campまで1,000mの道のりを下っていく。あれだけ辛かった道のりも下りは楽勝。砂走りの要領でサンドスキーをするみたいに駆け下りる。同じ道なんだけど、登ったときは真っ暗だったので周りを見ていないので全く別の道を歩いているみたいに楽しむことができるのはいいね。

MarcoとLarah、二人とも下りは楽しそう。それにしても空が青い。

9:00、5時間かけて登った道を1時間半で下りきってBarafu Campに到着。ひとまずすべてをほっぽりだし、テントに入って横になる。もう体力もひざもすべてが限界!

昼過ぎ、Larahaに起こされ目が覚める。他のテントを除くとKarinだけがいた。彼女とLiseは5,600mくらいのところで朝を迎え引き帰してきたとのこと。そしてLiseの具合が悪化したのでLiseとMarkusは今日中にふもとまで下ったらしい。僕と一緒に到着したMarcoもそれを聞いて一緒に麓まで向かったようだ。Marco、お前すごすぎるよ。

からっぽになった胃袋にひさしぶりの温かいご飯を流し込み、12:30Barafu Campを出発。Karinのペースにあわせるようにゆっくりゆっくり下っていく。

3時間かけて3,100mのMweka Campに到着。まるで口元が勝手ににやけてくるような登頂を果たした充実感と、いろいろな荷が下りたような安堵感、そして猛烈な疲労に襲われて食事をとってすぐに寝てしまった。長い一日だった。

Written by shunsuke

2011年3月6日 at 10:56 午後

カテゴリー: 2010/10 Kilimanjaro

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